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子供の情操教育にマジックが良いとゲーテは考えた

世阿弥とマジック
ペン  : モンテグラッパ ・ ピッコラ (F)
インク :  モンブラン    ・ ボルドー

林 望 : 文章の品格

世阿弥が言っていることは、芸というものは、独りよがりではいけない、いま自分の演じている姿を、いちど冷静に自己を離れて、見物人から見たらどう見えるかという立場に立って見直してみるがよい、というのであります。
じつに透徹した、そして合理的なものの見方で、世阿弥はこれを能の演技について述べたのですが、ちょっと見方を変えると、なにも能のことだけでなく、表現ということ一般に押し広げて適応できる考え方だと思います。

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カードマジックの第一人者、前田知洋さんの 「人を動かす秘密の言葉」 という本に次の記述がありました。

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ドイツの文豪でもあるゲーテは、子供の情操教育にはマジックが向いていると考えていたようです。
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ゲーテは1749年生まれで、1832年に亡くなっています。この時代、マジックをアマチュアが行なうことは稀でした。現在では初心者向け手品本に紹介されるような作品のタネも、当時はプロにとって生活のかかった、秘伝中の秘伝だったわけです。

このような時代に、「子供の情操教育にはマジックが向いている」なんて発想を持つとは驚きです。私、ゲーテの作品は難しそうでとても読む気になれませんが、ゲーテが天才だったことは、この一言でわかります。

さて、前田さんは、ゲーテが「子供の情操教育にはマジックが向いている」と考えた理由について、次のように述べておられました。

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マジックが「表現すること」と「隠すこと」を同時に行うことを考慮すれば、子供が成長して社会で他人と接するときに、その経験が役にたつであろうと、ゲーテは思ったのかもしれません。
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たしかに、ゲーテはこのように考えたのかもしれません。「表現すること」と「隠すこと」という矛盾する行為を同時並行で進めねばならないマジックの特性を知ることは、大いなる学びにつながる可能性があります。

しかし、この文章を読んだとき、私はなにか、しっくりこないものを感じ、メモに残したままにしていました。

それが、冒頭の、”リンボウ” こと林望先生の文を読んでスッキリ理解できたのです。

マジックの練習をすることや演じることは、「相手から自分を見たらどう見えるのか」 という客観的な視点を鍛えるのに最適なのです。

もちろん、「演じる」ということに限って言うなら、日本の伝統芸能も含めた演劇一般についても、同様に客観的な視点を鍛えることができるでしょう。

しかし、マジックと演劇には、同じ演じる行為でも決定的な違いがあります。

まず、マジックはミスが絶対に許されない緊張の世界であること。多少セリフを間違えてもリカバリーの可能性がある演劇と異なり、マジックは観客からタネが見えたらアウトです。

そして、客のスタンスが違うこと。マジックの場合、客の多くは 「タネを見破ってやろう」 という ”挑戦” の眼で見ています。演劇の場合、「楽しもう」というスタンスで客は見てくれますが、マジックでそのような悠長スタンスで見てくれる客は悲しいかな少数派なのです。

さらに、一人芝居などを除き演劇は多人数で行なわれるものなので客の目線は分散しますが、マジックは通常、一人かせいぜい二人という少人数で演じるものであるため、客の目線は演者に集中しています。

だからこそ、マジックは、「幽体離脱して、演じている自分を見るもう一人の自分」 を持つために適したトレーニングになりえるのです。

このマジックの特性にゲーテが気づいたということは、ゲーテ自身がマジックを練習し、演じたに違いないと私は考えます。実際に体験し、客の前で失敗して恥をかかなければ、「マジック」という特殊な芸の真髄には迫れないはずですから。

さて、リンボウ先生は、客観的な視点を鍛えるということについて、 「ちょっと見方を変えると、なにも能のことだけでなく、表現ということ一般に押し広げて適応できる考え方だと思います」 と述べておられます。

「三浦知良選手の強みは幽体離脱の能力にあり」 でお伝えしましたように、アスリートであろうが、芸能人であろうが、料理人であろうが、ビジネスマンであろうが、あらゆる仕事において、「客観的に自分を見つめる、もう一人の自分を育てる」 ということが、上達の鍵を握っていると言えるのではないでしょうか。


= 追記 =

ご参考までに、リンボウ先生が冒頭で述べられた内容の元となった、世阿弥の文章をお伝えします。

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見所より見る所の風姿は、我が離見なり。然れば、我が眼の見る所は、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、則、見所同心なり

世阿弥 : 花鏡
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この文を、リンボウ先生は次のように解説されています。

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観客席から見るところの自分の姿というものは、自分にとっては「向こうから見る見方 = 客観的視線」である。そうすると、自分のほうから自分を見るのは「こっちから見る見方=主観的な見方」である。この我見は決して客観的にものを見ているのではない。けれども我意を離れて向こう側から自分を見直してみる。それすなわち、見物人がどう見るかというところと同じはずだ。
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