おもしろきこともなき世、において必要とされる感性

白洲正子 私の骨董

Pen : Kaweco - AC sport (F)
Ink : faber castell - Moss Green

たとえばここに唐津のぐいのみがあるとする。その陶土を見てそれが唐津であり、鉄砂で絵を描いたことは判る。物識りはその上に、高台の作りかたとか、火加減とか、窯変の面白さなどに薀蓄をかたむけるであろう。
だが、それらの綜合の上に成り立っている一個の器について何も説明したことにはなるまい。
いかにそれが美しいか、絵が面白いか、千万の形容詞をつらねても美そのものを語ることはできない。
そこでは知識も学問も何の役にも立ちはしないのだ。


白洲正子 : 私の骨董
====================

前稿に続いて、白洲正子の遺した言葉について考えてみたいと思います。
  
白洲正子が上の箇所を記した際に意図したのは、ウンチクばかり垂れてセンスの無い、自称専門家に対する批判だと思われます。

それを、我々の身近な世界に置き換えて考えてみると、美術館で貸し出されている音声ガイドを聞くことに夢中になり、作品をロクに見もしないでわかった気になる人が相当するでしょう。
美術館 音声ガイド
なにを隠そう、私自身もうっかりすると、そんな人間になることがあります。

まさしく正子が伝えているように、どんなに知識を積み重ねたところで、美を理解できるとは限らないのです。

しかし、実際のところ、美術館に行って何の知識も無いまま漠然と絵や彫刻や器を眺めて、それらを名作だと感じられるかというと、それは難しいですよね。

やはり、人が生み出す一流の作品、一流の仕事の美しさを理解するためには、そのすばらしさを理解するための知識が必要です。

では、そこで言う 「知識」 とは何でしょうか。その作品にまつわる直接的な知識も含まれるでしょう。例えばテレビでいうなら、「美の壺」、「日曜美術館」、「美の巨人たち」 といった番組で紹介される情報は、良いとっかかりになると思います。しかし、白洲正子が言いたいのは、美術に関する直接的な知識だけでその作品の持つ美を理解することはできない、ということなのです。

前稿で、正子が遺した 「道草が大事なの。人間は道草をしないとダメよ。私なんて、道草をしながら生きているようなものね」 という言葉をお伝えしましたが、道草を通じて自然に身につく知識の積み重ねが重要だと正子は説いています。

そうした知識がやがて教養となり、教養が品格を生み、品格が美に対する感性をもたらすのではないでしょうか。

ここで私が言う 「品格」 は、なにも高尚な次元に限りません。子供から大人へと成長する過程のなかで、誰もが教養を高め、品格を徐々に身につけてゆくわけですから、程度の差こそあれ、通常、大人は誰もが品格を備えているのです。

ですから、全ての人は、若いうちから、他人の作品や仕事に対して、「あっ、これは美しいな」 と感じるシーンがあるはずです。

例えば、男性であれば、サッカー選手の一本のパスをみて、「美しいプレーだなあ」 と感じることがあるでしょう。女性であれば、ドラマにおける俳優さんの演技をみて、「すばらしい」 と感動する局面に出くわすはずです。
ジダンのパス

こうして人は誰でも、身近なわかりやすいところで 「美」 というものを感じています。本来は年齢とともに、知識を重ね、教養を高め、品格のレベルも上がり、美に対する感性も鋭くなってくるはずです。

そうするとだんだん、若い頃には気付かなかった、日常生活にあふれているモノや身近な人の仕事ぶりに対しても、「美しいな」 と思えるシーンが増えてきます。「美しい」 と感じるシーンが増えれば増えるほど、日々の生活は豊かになるし、自らがこなす仕事も (職場であれ、家庭内であれ) どんどん洗練されてゆきます。

激動の幕末に生きた高杉晋作は、「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」 という言葉を残しましたが、最後の 「心なりけり」 を 「感性なりけり」 と読み替えてみましょう。
高杉晋作 おもしろきこともなき世を

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは感性なりけり」

白洲正子が伝えたかったことは、この言葉にあると私は考えます。

誰もが人生において経験を重ねるとともに、感性を向上させ続けてゆくことができる世の中になったらいいなと思います。

しかし、現実をふりかえると、年齢とともに自分をとりまく環境は複雑化し、忙しくなってゆきますから、よほど自らが意識していないかぎり、日々の生活に流されてしまい、感性の向上は止まってしまうケースがほとんどではないでしょうか。

かくいう私も忙しいことを理由に、年々、読む本の数が減ってきています。感性の成長も止まっているのかもしれません。

2016年、「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは感性なりけり」 という言葉を肝に銘じて、昨年より一冊でも多く本を読み、道草に励みたいです。

白洲正子が語る、骨董の目利きになる法

白洲正子と骨董

Pen : Pilot – Elabo (SF)
Ink : Sailor – Okuyama

バブルがはじけて、今度は文化だということになり。私などのところにまでブンカブンカドンドンとマスコミが押しかけて来る。そんなことに一々驚いていては身が持たない。彼ら-といっても、私の場合はおおむね編集者であるが、先ず訊くのは、どうしたら骨董がわかるか、ということである。
 さあて、と私は考える。
 あたしにもわかんないのよ。自分が好きなものを知ってるだけ。
 それをどうやって見つけたんですか?
 好きなものと付き合っている間に、骨董の方から教えてくれたの。五、六十年もやって、やっと骨董にも魂があるってことを知ったの。その魂が私の魂と出会って、火花を散らす。といっても、ただ、どきどきするだけよ。人間でいえばひと目惚れっていう奴かな。そして、どきどきさせるものだけが美しい。

白洲正子 : 私の骨董
====================

 先日、家族で東京国立博物館へ行ってきました。
東京国立博物館

 国宝の器を見ていた時に思いました。

―  国宝の器も、100円ショップで売られている器も、どちらも土をこねて焼いたもの。 価値がわかる人にとって、この器は値段をつけられないほどの価値を持つ。しかし、わからない人にとっては、100円ショップで売られている器と何の違いも無い。“骨董”って何なのだろう? 骨董に興味を持つ人、持たない人、どっちが幸せなのか。持たない人の方が余計な金をつかうこともなく、幸せなのかもしれない  ―

 そんな折、白洲正子のことを思い出しました。

 白洲正子は、華族出身で、「かくれ里」 をはじめとして数々の随筆を遺された方。骨董の目利きでもありました。
白洲正子

 上述の言葉を目にしたとき、私のなかで引っかかるものがありました。

 正子は、編集者から 「どうしたら骨董がわかるか」 と何度も聞かれたと言うのです。
 
 編集者の問いは、読者の声を代弁したものでしょう。すなわち、骨董がわかるようになりたい、目利きになりたい、と思う人が多いということなのです。

 「骨董がわかるようになりたい」 と人が願うとき、その理由は何なのでしょうか。私は次の3つに分かれると思うのです。

1) 「開運! なんでも鑑定団」 の影響を受け、お宝をゲットして大儲けすることに憧れるようになったから
2) 「骨董がわかる人」 になると、人から 「文化人」 あるいは 「教養ある人」 という目で見てもらえるようになる。そんな存在に自分もなりたいから
3)  骨董品に興味をいだくようになったけれど、何が価値を分けるのか全然わからない。その謎を知りたいから

 正子の孫である、白洲信哉さんが書かれた 「白洲家の流儀」 という本を読むと、生前の正子にまつわる様々なエピソードが記されています。
白洲家の流儀

それを読むかぎり、正子は1)と2)のタイプの人を嫌ったであろうなあ、と思います。3)のタイプの人について、正子は否定はしなかったでしょうけれど、お友達には入れてもらえなかったはずです。すなわち、1)~3)、いずれのタイプも正子からみれば邪道であり、「骨董をわかるようになりたい」 なんて考える必要はない、ということになりましょう。

上の言葉にあるように、正子は骨董の目利きになろうと思って勉強を積んだ人ではありません。自分が興味を持つことを、あれこれ調べ、学んでいるうちに、自然と目利きになっていたのです。

そもそも骨董は、「○○道」 のように上達法が確立されている芸の世界とは異なるのですから、目利きになるための方法なんてありはしないのです。したがって、目利きになるためには、正子の通った道を辿る以外にありません (*プロの鑑定士は商売ですから、骨董を楽しんでいるわけではなく、それは“目利き”とは別なカテゴリーに属すものと私は考えています)。

 「白洲家の流儀」 の中に、正子が述べた次の記述があります。

 「道草が大事なの。人間は道草をしないとダメよ。私なんて、道草をしながら生きているようなものね。旅も一緒よ」

 この言葉は、前稿でお伝えした灘校の橋本 武先生の言葉と同じです。そこに人生を楽しむ極意があるはずです。

 正子のように道草をし、経験を積み、知識を増やしていくと、その先に、「骨董にも魂があるってことを知ったの」、「どきどきさせるものだけが美しい」 という世界が見えてくるのではないでしょうか。それこそが、真の文化人であり、教養ある人であり、人生を楽しんでいる人だと思うのです。

たとえ、プロの骨董商から見れば値段がつかないような安物であっても、「このモノには魂が宿っている。美しい」 と感じるものを見い出し、持ち、愛することができた人は、人からどう見られようと、「骨董の目利き」 として、一歩を踏み出したといえます。

白洲正子が友人として愛したのは、そんな人たちだったはず。

私も、天国にいる正子から 「あなた、いいセンスしているじゃない」 と声をかけてもらえるよう、値段にかかわらず、身の回りのモノ、ひとつひとつに、こだわってゆきたいと思います。道草を続けるうちに、ドキッとするモノが見つかると信じて。

人生の楽しさは趣味の数に比例する

一生役立つ学ぶ力
Pen : Pilot – Elabo (SF)
Ink : Sailor – Okuyama

教師生活を人生の本筋とするならば、これらの趣味はまさに人生の 「横道」。それればそれるほど楽しみも増すわけです。そして、横道がたくさんあればあるほど、人生が豊かになりますし、知識も広がってゆきます。

橋本 武 : 伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力
====================

日本で最も勉強のできる生徒が集まる学校といえば、灘校でしょう。
灘校

灘校の橋本先生は (2013年に逝去)、国語の授業で教科書を一切使わず、中勘助の小説 「銀の匙」を3年間かけて読むというユニークな授業で有名な方でした。
橋本 武 先生

橋本先生がいったいどんな授業をなされていたのか。私は娘の教育という観点から興味をもって、「伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力」 という本を読んでみました。

先生の授業の進め方は、本をじっくり読みながら、気になる箇所を掘り下げてどんどん横道へそれてゆく、というものでした。例えば、「漢方」 という言葉が本の中に出てきたら、漢方の発祥のエピソードから現代の日本における漢方の影響まで調べていったりするのです。こんなかんじで、一冊の本を読むのに3年もかけてゆく授業だったそうです。

橋本先生が生徒に伝えたかったのは何だったのでしょう。私は 「知的好奇心をもって学ぶことの楽しさ」 だったのではないかと思うのです。言い換えるならば、「人生を楽しむコツ」 を伝えたかったのでしょう。

そんな橋本先生は、「人生の楽しさは趣味の数に比例する」 という章で、上述の言葉を遺されています。

橋本先生が趣味とされていたのは 「カメラ、8ミリ、国内旅行、郷土玩具・カエルグッズ厚め、おしゃれ、茶の湯、お能、短歌・俳句づくり、謡曲、歌舞伎・人形浄瑠璃などの観劇、社交ダンス、宝塚鑑賞」 だったとのこと。

私も自分で多趣味だと思っていましたが、橋本先生には遠く及びません。そんな私でも 「人生の楽しさは趣味の数に比例する」 という先生の言葉は、わかるような気がします。

ひとつの趣味をある程度のレベルまで極めてゆこうとすると、その過程で知りたいこと、学びたいことがどんどん出てきて 「横道」 に入らざるをえません。その 「横道」 について調べてゆくと、また別な 「横道」 がでてきます。そこを進むとまた新たな 「横道」 が、、、という繰り返しで、いつのまにか多趣味になっているというのが、知的生活者としてあるべき、本来の姿ではないでしょうか。

そのようにして趣味を多く持つようになった人は、人生を楽しんでいると思うのです。

逆に言うならば、趣味を持たない人は、人生を楽しめていないということになります。

「趣味に追われてばかりいると、仕事がおろそかになりやしないか」 という考え方もあるかもしれません。

その点に関して、橋本先生は次のように述べておられます。

====================
とにかく、自分なりの関心をもって 「横道」 にそれれば、それだけ理解度も高まります。また、その 「横道」 はゴルフでも囲碁・将棋でも野球観戦でも何でもかまいません。そうして 「横道」 にすっかりそれたあとに、改めて本筋を見てみる、本筋に戻ってみる。すると、本筋たる勉強や仕事はきっと前よりずっと豊かになるでしょう。
====================

すなわち、
・知に対して貪欲であれば多趣味となり
・多趣味であれば仕事を楽しむことができ
・仕事を楽しむことができれば人生を楽しむことができる

ということなのです。

そんなわけで、自己紹介の際、「私は無趣味です」 と述べられる方は、「私は仕事も人生も楽しんでいません」 と宣言していることに等しいと、僭越ながら私には思えてしまいます。

しかし残念ながら、ここ最近、無趣味の人が急速に増えているようにみえます。

その最大の要因はスマホです。自分の自由時間の大半をスマホに費やす人の比率は高まる一方ではないでしょうか。

レストランでは、互いに話すこともなく、スマホをチャカチャカいじってばかりのカップルをよく目にします。それが現代の愛の姿だと言われればそうなのかもしれません。

しかし、そうしたカップルは親になってもスマホから離れられないでしょう。ファミレスでスマホをいじくっている親の間で、寂しそうにポツンと取り残される子供の姿が目に浮かびます。かわいそうでなりません。

私のように、「電話で話す用途以外に、スマホは一切使わない」 なんて人間は極端すぎるにせよ、現代は 「スマホからどこまで離れることができるか」 で、人生の豊かさのを測れる時代になったとも言えるのではないでしょうか。

左手にロレックス、右手に100円ボールペン

池波正太郎 男の作法

Pen : Pelikan - M800 Rollerball
Ink : Broad, Blue

万年筆とかボールペンとかサインペン、そういうものは若い人でも高級なものを持ったほうが、そりゃ立派に見えるね。万年筆だけは、いくら高級なものを持っていてもいい。つまり、いかに服装は質素にしていても万年筆だけは、たとえばモンブランのいいものを持っているということはね。

池波正太郎 : 男の作法
====================

2016年、最初に読んだ本は池波正太郎の 「男の作法」 でした。この本は、10年ほど前に読んだのですが、手にとってパラパラと眺めてみたらすっかり中身を忘れていることに気付いたので再読することにしたのです。

万年筆について語られている上記の箇所は、最初に読んだときにはおそらく読み流していたはずです。しかし、潜在意識に刻み込まれていたのでしょうか。近年、私はペン収集が趣味になってしまいました。

池波さんがこの本を出されたのは1981年。当時は万年筆が衰退し始めていたとはいえ、ビジネスマンでも万年筆を仕事で使う方がおられたはずです。

しかし、その後はボールペン全盛の時代になり、現在、ビジネスマンで万年筆を使う方はほとんど見かけません。

私の場合、オフィスに万年筆は置いてあるものの (*インクが乾いてしまうリスクの無いプラチナのセンチュリー3776シリーズです)、基本的にはボールペン (主に水性) を使っています。

ボールペンのメリットである、インク漏れのリスクが無いこと、突然のインク切れのリスクが少ないこと、速記してもインクフローが安定していること、といったことを考えると、ビジネスの現場では万年筆よりボールペンの方が実用面で勝るというのが私の結論です。

そんなわけで、池波さんの上述の言葉を現代風に置き換えるなら、「ボールペンだけは、いくら高級なものを持っていてもいい。つまり、いかに服装は質素にしていてもボールペンだけは、、、」 ということになりましょう。

池波さんはペンに関し、「男の作法」 で次の言葉も遺されています。

「男が (*ペンを) 外へ出て持っている場合は、それは男の武器だからねえ。刀のようなものだからねえ、ことにビジネスマンだったとしたらね。だから、それに金をはり込むということは一番立派なことだよね。貧乏侍でいても腰の大小はできるだけいいものを差しているということと同じですよ」

この箇所を目にしたとき、昨年末の出来事を思い出しました。

ミーティングでお会いした、某大手企業の重役のことです。

その方は、一目でそれとわかる、ブルックス・ブラザーズのブレザーとシャツとネクタイを着ておられました。
Brooks Brothers

持たれているブリーフ・ケースはTUMIの定番26108。
TUMI 26108

左腕にはゴールド・カラーのフルーテッドベゼルが眩しい、ロレックスのデイトジャスト。
Rolex DATEJUST

ビジネスマンに人気の高いブランドが勢ぞろい、というかんじですね。

そんな方がミーティングの席において、TUMIのブリーフ・ケースから取り出したペンは、、、プラスチックの100円ボールペン (2色) でした !
2色ボールペン

私のようなマニアは別にして、ビジネスマンの場合、必ずしも高級ペンを持つ必要は無いと思うのです。数千円、いやわずか千円も出せば、ピカピカのロレックスと一緒に目に入っても違和感のないペンはいくらでもあるのですから、普通はそれで充分です。

時計に何十万円もかける方が、なぜ100円ボールペンなのか。

私の価値観は池波さんのそれに近いので、高級ペンを持つ方が量販店のスーツを着ていても全然違和感はありません。しかし、たとえ身をブランド品で固めていたとしても、手にするペンが安価なものであると、その方の品位を台無しにしてしまうことがわかりました。実にもったいないことです。

その一方でふと思ったのです。自分も同様に、何か一点の隙によって 「この人、ダメなんだろうなあ」 と人様に思われていることがあるのではないかと。

「俺は人からどう見られようと、そんなことは気にしないよ。自分は自分だ」 という考え方もあるかもしれません。

しかし、ビジネスの世界においては、人とのつながり無くして仕事は成り立ちません。そう考えると、見栄や虚栄心といった次元から超越したところにおいて、「自分は人様からどう見られているのか」 という意識を持つことは、多くのビジネスマンにとって、美しい仕事を目指すうえでとても大切なことではないかと思うのです。

「常に他人様に見られている」 ということを意識を忘れずに、2016年も美しい仕事を目指してゆきたいです。
カレンダー
12 | 2016/01 | 02
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
89位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
哲学・思想
11位
アクセスランキングを見る>>