まっとうなイタリアンを見定める

まっとうなイタリアンを見定める

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パスタというのは、めん類の総称です。
そして、パスタと切っても切れない関係にあるのが母親の存在です。大げさにいうなら、イタリアの母親家長的な雰囲気に密接しているのがパスタなのです。

ソフィア・ローレン : キッチンより愛をこめて
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“イタリアを代表する女優”といえば、ソフィア・ローレン ( 1934年生 ) をおいて他にいないでしょう。
ソフィア ローレン

個性的な顔立ちで、決して典型的な美人とは言えませんが、印象に残る女優さんだと思います。

大女優のソフィア・ローレンは料理上手だったようで、その彼女が書いた料理本が、「キッチンより愛をこめて (IN CUCINA CON AMOR) 」です。日本版の初版が1974年。私が持っているのは1977年の第六刷です。
キッチンより愛をこめて

この本には、それぞれの料理に対するソフィア・ローレンの思い出や彼女のオリジナルの工夫などのコメントがそえられており、読み物として面白い内容になっています。私は中学生のときにこの本を手にし、それ以来、この本のレシピでいろいろなイタリア料理を作ってきました。料理を作る楽しさを教えてくれた本のひとつです。

本書が出版された1974年は、イタリア料理が日本の家庭に浸透する前でした。次のような訳語でそれがわかります。

ボンゴレ => 本書 「アサリ入りスパゲティ」

カルボナーラ => 本書 「ベーコンと卵のスパゲッティ」

ミネストローネ => 本書 「野菜入りスープ」 

トーストしたパンに、トマトの切り身をのせて食べるブルスケッタ (Bruschetta) は、今やどこのイタリア料理店でも見ることができます。
ブルスケッタ

本書でこの料理の訳語は 「パンのオリーブ油焼き」 となっています。

レシピは 「パンを焼き、半分にスライスしたニンニクの断面をパンにこすりつけ、少量のオリーブオイルをパンにかけて、塩をふって食べる」 となっており、トマトは出てきません。

もしかすると、トマトをのせて食べるレシピは、イタリア本国でも1970年代以降に広まったものなのかもしれませんね。

さて、本書でソフィア・ローレンは、「パスタというのは、めん類の総称です」 と述べていますが、実はイタリア語で“パスタ”とは“ねり物”のことです。歯磨き粉も“パスタ”ですし、パンを焼く前の、タネがドロドロした状態も“パスタ”です。

いつ頃からでしょうか。日本では“スパゲティ”のことを “パスタ” と呼ぶようになってしまいました。テレビに出てくるイタリア料理店の有名シェフも、普通にスパゲティのことをパスタと言っています。今や、スパゲティという言葉を使うと、少しダサいようなイメージすらありますね。

しかし、これはトンデモナイ誤解です。パスタには数多くの種類があり、スパゲティはパスタの一種にすぎません。

したがって、海外のレストランで 「パスタをお願いします」 なんてオーダーしたら、「どのパスタですか?」と逆に聞き返されてしまいます。

2020年には東京オリンピックもあるわけですから、パスタ=スパゲティ、という変な和製イタリア語は修正してほしいものです。

もうひとつ、これもよくわからないのが、日本のイタリアンレストランでスパゲティを食べる際、スプーンの上でくるくる巻いて食べる人が多いことです。もはや、日本ではスパゲティを食べる際、これが正式なマナーに化してしまった感すらあります。
スパゲティのクルクル巻き

このようなスタイルは、左手に持ったフォークの背にライスを乗せて食べるスタイルほどではありませんが、
フォークの背にライス
本国イタリアはもちろん、他の欧米諸国で私はほとんど見たことがありません。アメリカで何度か目撃したかぎりです。

いつからこの奇妙なスタイルが日本で一般的になったのでしょうね? そのうち、厚切りジェイソンのネタにされてしまうかもしれません。

さて、前置きが長くなりましたが、表題の 「まっとうなイタリアンを見定める」 の話に戻ります。

イタリアンはフレンチより料理の工程がシンプルであり、各工程で求められる技術の難易度はフレンチより低いため、アマチュアでもレシピどおりに作ればプロと大差ない味に作れる料理が多いです。それに対してフレンチは、レストランと同レベルの味を家庭で再現するのは容易でありません。

したがって、西洋料理で比べる場合、イタリアンはフレンチに比べて、美味しい料理を出すレストランと、まずい料理を出すレストランの実力差が反映されにくいと言えます。

それでも、せっかくプロの料理を食べるならば、美味しいレストランに行きたいものです。ではどうやってイタリア料理店の実力を見極めればよいのでしょうか。

私は、初めて行くイタリア料理店では、必ずある品を注文するようにしています。

それはニョッキかラビオリです。

この二品は、店による実力差が如実に出てしまいます。

ニョッキはジャガイモと小麦粉で作るパスタです。
ニョッキ

美味しいニョッキは溶けるように柔らかい口当たりになります。私は自分でニョッキを作ったことが何度かあるのでわかるのですが、このような口当たりのニョッキを作るのは難しい。口あたりの良さを優先すると形が崩れてしまうからです。

逆に形を整えようとすると、今度は硬くなりすぎて、「すいとん」のようになってしまいます。
すいとん

美味しいニョッキを作れる店は確かな技術を持っていると言えます。こうした店は、技術レベルが高いので、他の何を食べても美味しいと考えて、まず間違いはありません。

残念ながら、日本ではニョッキを注文する人はまだ少数派です。食べたことが無い方も多いと思います。

たしかに、ニョッキを注文すると、“極上”に出会える確率は低くて、多くの場合は“すいとん”ですから、ハイリスクなオーダーなのです。本国イタリアでも“すいとん”のようなニョッキを出すレストランは数多くあります。しかし、美味しいニョッキに出会えたら、「すばらしいイタリア料理店を見つけた」 ということがわかりますから、試してみる価値はあります。

ラビオリについては詳細は省きますが、ニョッキ同様、美味しく作るのは簡単ではありません。美味しいラビオリは、、皮と、中の具と、ソースが三位一体となったハーモニーを奏でます。

こうしたことから、腕に自信のあるイタリア料理店は、“店の看板メニュー”、もしくは “今日のおすすめメニュー” にニョッキかラビオリを入れている確率が高いです。なぜなら、スパゲティでは他の店との差をお客さんに感じてもらいにくいので、その差を見せつける料理をお客さんに食べて欲しいと考えるのが普通だからです。

逆に、「当店の自慢はスパゲティです」 と言うイタリア料理店に対して、私は 「?」 と思ってしまいます (*自家製の生スパゲティの場合は除きます)。

スパゲティだけでは満足しない、舌の肥えた客が増えれば、日本のイタリアンはさらに進化するはずです。日本でも、美味しいニョッキとラビオリを食べさせてくれる店が増えるよう、祈っています。

まっとうな寿司屋を見定める

寿司屋さんが書いた寿司の本
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長年の勘と素材に対する厳しい選択が、塩加減と酢加減を決定して美味しい素材になるのです。 「こはだは寿司屋の顔だ」 といわれるゆえんは、このあたりからきているのかもしれません。しかし、塩と酢( 梅酢) の具合が味を決めるところから「塩梅」という言葉を作った先人は、つくづく偉いものだと思います。

内田 正 : 寿司屋さんが書いた寿司の本
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日本人で 「寿司は嫌い」 という人を見つけるのは難しいですよね。私も寿司は大好物でして、朝、昼、晩の三食が寿司でもよいくらいです。家でもよく作りますし、回転寿司も行きますし、コンビニの、“ツナ巻き寿司”とか“納豆巻き寿司”とかも好きです。

「寿司であれば何でも好き」 というタイプの私なんですけれど、寿司屋でプロの寿司を食べたくなるときもあります。他人の評価に惑わされず、自分の価値観で、お財布にやさしく、実力もたしかな寿司屋を選ぶにはどうしたらよいでしょうか。長年、試行錯誤を続けた結果、私は次のようなスタイルで判断するようになりました。

寿司屋さんを選ぶ際、一番大切な条件は、あたりまえですが 「清潔であること」。魚の生臭さが漂う店、長髪の板前さんがいる店、板前さんがタバコを吸う店、こういうところはパスですよね。

この最低条件をクリアした後は、いよいよ寿司の味になってきます。

私は、寿司屋の実力は、コハダ(小肌)、玉子、海老(生ではなくて調理したもの)、この寿司種三種で明確に差が出ると考えています。

その中でも一種だけあげるとしたらコハダでしょう。
こはだ

「美味しいコハダを食べさせてくれる店は、他のどの寿司を食べても美味しい」と考えて、まず間違えはありません。

コハダは季節によってシンコ、コハダ、ナカズミ、コノシロと呼び名が変化し、素材の状態も変化してゆきます。塩をふり、水で洗い、次に酢で洗い、最後に酢で漬け込む、という手間のかかる工程が必要なうえに、魚の状態によって塩加減、酢加減を変えねばならず、寿司屋の実力が露骨に見えてしまう寿司種です。それにもかかわらず、コハダの売値は寿司屋の種の中で安いレンジにあります。

このため、コハダは寿司屋にとって、最も儲からない商品と言えます。経営効率だけを考えるならば、コハダをメニューから外した方がよいはずです。

しかし、まっとうな寿司屋は儲けを度外視してでも、コハダに力を入れるのです。それは上述の内田 正さん(浅草、弁天山美家古寿司の社長)が述べておられるとおり、コハダが江戸前寿司の顔といえる商品だからでしょう。コハダには寿司屋の心意気が表現されているのです。

そんなわけで、私は始めて行く寿司屋でカウンターに坐り、お好みで注文するときは、コハダからスタートするようにしています。店の顔といえる商品がどのようなものか知りたいですし、コハダの酸味で胃が刺激され食が進むからです。

コハダの話が長くなってしまいましたが、玉子と海老も、店によって大きく差がでますね。

玉子は手間がかかるので、専門店から玉子だけ買い付ける寿司屋も多いです。そう考えると、「玉子はうちで作っています」 という寿司屋さんは、それだけで高い志を持っていると言えるでしょう。

海老については、調理をせずに生で出す店が多いです。海老が素材として持つ濃厚な味わいは、生で食べて充分美味しいわけですから、調理を施して生よりも美味しくするというのは難しいことです。しかし、実力のある寿司屋は、火を通してなお美味しい海老を食べさせてくれるのです。これについて、上述の内田 正さんは次のように述べておられます。

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海老は茹でることによって残念ながら海老の持っている旨味を茹で汁の中に放出してしまい、そのまま寿司種にしてしまいますとパサパサな、だしのぬけ殻のようなものになってしまいます。塩と甘酢で海老にもう一度旨味と水分を補充することによって充分に美味しい寿司種としての海老が出来上がるのです。
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そんな内田さんのお店で出される寿司が次の写真になります。
弁天山美家古寿司

コハダ、玉子、海老、、、どれも輝いていますね。

今後は日本の人口が減り、寿司屋間の価格競争も厳しくなることでしょう。それでも、こういう手間のかかる寿司種でプロの技を見せてくれる本物のお寿司屋さんが、こだわりを曲げずに江戸前の伝統を守ってくれることを願っています。

寿司は日本の伝統文化ですから、よい寿司屋を見定め、そういう寿司屋が繁盛するように支援するのも、日本人としての責務のひとつと言えるのではないでしょうか。

琵琶湖でのセミリタイア生活

リタイア生活2

酒を傾けながらボケッとしているとき、リタイア後の生活を妄想するのが好きです。

今の仕事は楽しいし、やりがいもあり、ありがたく思っています。その一方で、今の仕事以外にもやりたいことがたくさんあるのです。もっと本を読みたい、写真を撮りたい、文も書きたい、絵も描きたい、料理をしたい、農業をかじってみたい。。。

生涯、仕事一筋に打ち込む人生もカッコいいと思います。しかし、一度しかない人生ですから、私は様々なことにチャレンジしてみたいのです。

では、そのセミリタイア生活をどこで過ごすか?

私は居住地の選択にあたり、次の4点を重要視しています。

1)  歴史の面影が感じられるところ - 例えば東京の場合、近年に街づくりがなされた湾岸エリアのようなところは苦手です。それよりも、江戸や明治の痕跡がある下町や山の手が好みです。

2)  自然を感じられるところ - できれば、山、川、海といった自然を眺め、散歩できる環境にあこがれます。

3)  冬の寒さが厳しくないところ - 雪に閉ざされる生活は経験してことがないので、今から適合するのは厳しいです。

4)  温泉好きなので、できれば魅力的な温泉を楽しめるところ

なかなか全ての条件を満たす地はありません。以前、「現役引退後、どこに住むか」 という稿でお伝えした候補地は、那須、別府、京都、神戸、沖縄、山陰といったところでした。

そんな私にとって、急浮上してきた地が琵琶湖です。
琵琶湖

きっかけは滋賀出身の方と 「どこでリタイア生活をおくるか」 と話したときでした。その方から、「あまり知られていないのですが、滋賀っていいんでよ。琵琶湖南部は住みやすいです」 とオススメを受けました。

私は全く知らなかったのですが、滋賀の県庁所在地の大津って、実は京都にとても近いのです。快速でたったの10分です。大阪までだって、快速で40分。

京都に住んで、名所旧跡をまわり、美しい写真を撮って楽しみたいという思いはあるものの、不動産価格は高いし、気候も厳しいようなので、住むというのはどうかなあ、という思いはありました。しかし、琵琶湖南部ならば、ほとんど京都郊外のようなものです。しかも;

・ 眺望は最高 (湖だけでなく、比叡山などの山も楽しめます)
・ 不動産価格も京都より安い
・ 気候も京都より過ごしやすい
・ 海辺に住むと被る可能性のある塩害も無い

と良いことずくめ。

滋賀の方には申し訳ありませんが、滋賀は京都というブランドに隠れて、どうしてもマイナーなイメージがあります。私も足を踏み入れたことは無いですし、親戚もおりません。しかし、冷静に考えてみると、琵琶湖南部はとても魅力的なエリアだと思うんですね。

京都散策以外にも、こんな楽しみ方ができそうです。

・ 正月は近江神宮で、かるた名人戦を観戦
近江神宮j

かるた名人戦

・ 桜の季節には、三井寺で花見
三井寺の桜

・ 夏の琵琶湖花火大会
琵琶湖 花火大会

・ 新緑や紅葉の季節には比叡山ハイキング

・ 琵琶湖でのブラックバス釣り

・ 琵琶湖沿いのジョギング
琵琶湖 ジョギング

京都へ行かなくても、琵琶湖周辺だけで楽しいことが一杯あって、全然飽きないかんじです。

難点は、魅力的な温泉がまわりに無いこと、レストランのレベルがあまり高くないことくらいでしょうか。レストランは京都や大阪まで足を伸ばせばOKですけれど、温泉はガマンするしかないですね。
琵琶湖2

「神戸なら住んでもいいわよ」 と言っていた妻も、「ビワコ、ビワコ」 と言いつづける私に洗脳されたのか、最近はあまり 「琵琶湖移住計画」 に拒否反応は示さなくなってきました。はたして10年後、我が家はどこに住んでいるのでしょうか?

人生はわずか1点差で決まる

人生はわずか1点差で決まっている
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「惜しかったねえ、室井くん、2点差だったよ」
1週間後、自宅を訪ねた室井に、伊藤は入試の結果を告げた。
「そうですか・・・。たった2点、足りなかったんですか・・・」
室井の口からコトバが発せられたとたん、伊藤の表情が変わった。
「『たった2点』などと言ってはだめだ」
伊藤は怖い顔をして叱った。
「よく考えてごらんなさい。1点の線上に、受験生が300人もいるんだよ」
伊藤の口調は厳しかった。
(中略)
「あの時、初めて『人生は1点差、2点差で決まる』ということを知りました。『たった2点』と言った自分を、伊藤先生は叱ってくれた。小さな差として見過ごしているものの中に、じつは大きな違いが含まれていることを、身をもって知ったんです」

山下柚実 : 客はアートでやって来る
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大学受験の時まで、まともに勉強をしたことがなかった私は、受験科目が少ない私立文系を目指すしか道がありませんでした。

高校三年生のときに代々木ゼミナールの「早稲田模試」を受けてみたところ、結果は忘れもしない、偏差値37。模試受験者の中でほぼ最下位。覚悟はしていたものの、さすがにこの時はヘコみました。

無謀を承知で、現役のとき早稲田を受験してみて意外なことを知りました。不合格となった受験生は、大学に依頼すれば、何点差で落ちたのか教えてくれるというのです。こんなことをやってくれる大学は、私の知る限り、早稲田だけでした。結果は当然ながら、合格ラインには遠く及びませんでした。しかし、公明正大に事実を伝えてくれるその姿勢をみて、私は「早稲田っていいなあ」と思いました。

一浪のときは「合格したかも」という手ごたえを感じたものの、結果は不合格。3点差でした。

わずか3点・・・ 悔やみきれない思いだったことを覚えています。 一度は他の大学へ行く決意を固めたのですが、夢をあきらめきれず、もう一年浪人する選択をし、二浪目に早稲田に合格できました。

上に掲げた文は、栃木県の板室温泉にある大黒屋 (下の写真) の社長、室井俊二さんが早稲田を現役受験された際のエピソードです。 (*室井さんは一浪後、早稲田に合格されました)。
板室温泉 大黒屋

室井さんのおっしゃるとおり、「人生は1点差、2点差で決まる」 のだと思います。

お金が関与するか否かは別にして、全てのビジネスは売り手と買い手がいます。大学受験や就職試験であれば、自分は売り手、大学や企業が買い手になります。プロのサッカーチームなら、選手が売り手、監督が買い手です。

買い手からみると、売り手の1点差はよく見えます。

例えば近所に似たようなレストランがふたつあるとして、客がどちらを選ぶかの理由は、「女将さんの笑顔を見ると元気になるから」 というようなわずか1点差だったりするわけです。 

しかし、売り手からは、この1点差はなかなか見えません。それどころか、勝敗はわずか1点差で決まっていることにすら、気づいていない売り手がほとんどなのです。逆に言うなら、「勝敗はわずか1点差で決まっている」 ということに気づいている売り手は、すでに勝者側にいると言えるでしょう。

プロフェッショナルとは、「見えない1点を見つける」 という意識で日々格闘している人、といえるかもしれません。

早稲田の理系脳、慶応の文系脳

早稲田と慶応

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早稲田出身者いうのは、かなり弁が立つ。きちっと理路整然。慶応はどちらかというと、まあ仲良くやろうという感じやね。
早稲田はどちらかというと一匹狼で頑固。そういう意味で「理系的」やな。自分の意見を持ってなかなか譲らない。慶応は「典型的な文系」やわな。

岡藤正広 (伊藤忠商事社長): アエラ 2015年4月13日号

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私は早稲田大学に憧れ、二年浪人した後に入学し、卒業しました。

憧れて入ったわりには、大学にはほとんど行かず、六大学野球やラグビーの応援も全然行かない学生でした。けれども、4年間の自由を与えてくれた早稲田のおかげで今の自分があるわけですから、大学には感謝しています。

「早慶」とよく言われますが、最近の受験生は両校に合格したら、ほとんどは慶応に行くようです。早稲田OBとしては、正直、寂しい思いがあるものの、時代の流れゆえ、受け止めるしかありません。

早稲田凋落の最大の原因は、マスコミがパワーを失ったことにあると私は考えています。

新聞、雑誌やテレビといった、マスコミ業界では、なぜか早大出身者をよく目にします。それに対して、大手民間企業の幹部は、早大卒よりも慶大卒の方が圧倒的に多いですね。

IT革命が起こる前、さらに言うならば東西冷戦が終結する前、マスコミは現在よりもはるかに強いパワーを持っていました。それが早稲田の人気を支えていた面は否定できません。

しかし、新聞や雑誌の購読者数は減少し続け、テレビの視聴率低下も歯止めが効かない時代になってしまいました。

慶応が受験生の人気を集めたというよりは、マスコミ業界への就職に強いという評判にあぐらをかいていた早稲田が勝手に落ちていった、というのが実態ではないでしょうか。

さて、民間企業に勤務して20年以上、私も自分の会社内はもちろん、他企業も含めて多くのなビジネスマンを見てきた結果、早大出身者と慶大出身者との間にカラーの違いがあることに気づきました。

俗に「早稲田マン」、「慶応ボーイ」と呼ばれますが、それだけではない、仕事や考え方のスタイルの差を感じるのです。

自分はそれを表現するコトバを持っていませんでしたが、上述の岡藤さんのコメントを見て「これだ!」と思いました。

早稲田は理系脳、慶応は文系脳なんですね。

岡藤さんが述べられているように、早稲田の人は理系脳ですから、筋を通すことにこだわる人が多いように思います。このような思考特性はマスコミ業界に合っています。筋のとおらない事はマスコミが断固たる決意をもって批判しないと、ナチスドイツや旧ソ連共産党のような一党独裁の世の中になっていってしまいますから。
ナチスドイツ

ソ連共産党

一方、文系脳の慶応の人は思考が柔軟であり、これはビジネスや外交の世界に合っています。利害の対立する者同士が交渉において合意に至るためには、理屈だけではうまくいきません。ある程度のいいかげんさを持って互いに譲り合う、「情緒」の世界が必要になってきます。

(早稲田の人、慶応の人、と記しましたが、これは私の持つ勝手なイメージにすぎません)

それにしても、大学で過ごす期間は通常4年間しかないのに、なぜこれほどカラーの違いが出るのでしょう?

私は、もし人に魂というものがもしあるのならば、組織にも魂があると思うのです。組織は学問上の生物ではありませんが、現代社会における典型的な組織である法人の場合、「法人」という名からもわかるとおり、人格を持った存在ではないでしょうか。すなわち、人間の目には見えないけれど、法人は自らの魂を持った存在。私はそう考えます。

ですので、大学という組織にも魂があり、その一員になった人には、大学の魂が植え付けられるのです。当然、企業にも魂がありますし、国家にも魂があります。それを「社風」とか「国民性」と我々は言っていますが、そんなよそよそしいコトバではなく、生々しく「魂」というコトバでとらえるべきだと考えます。

我々、ひとりひとりの魂は、持って生まれた大本の魂の中に、生きてゆく過程で経てきた組織の魂がいくつも組み込まれて、その人ならではの魂に育ってゆきます。早大卒の人には「早稲田魂」が、慶大卒の人には「慶応魂」が入っているのです。それが日々の行動や思考の違いとなって現れてくるのではないでしょうか。

「組織の魂が自分の魂の中に組み込まれている」、そう考えると、組織も自分の身体の一部のようなものということになりますね。「会社をもっと良くしていかないと」 とか、「日本をもっと良くしていかないと」 という思いは、そんなところから芽生えてくるはずです。

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(2105年8月15日追記)

社会人になってから、早稲田と慶応のカラーの違いを感じる出来事がありました。

私が海外駐在していたときです。

その町に駐在する早稲田大学のOB会をやることになりました。幹事は応援部タイプの熱血早稲田マンでした。

日本料理屋で開かれたその同窓会、幹事さんより 「今日は偶然にも、このレストランの二階で慶応OB会が開かれているんですよ」 という話がありました。

その宴会も終わりに近づいたころ、二階から慶応の応援歌 「若き血」 が聞こえてきました。

慶応が 「若き血」 を歌うなら、早稲田はその応援歌 「紺碧の空」、と思ったのでしょう。
紺碧の空

幹事さんは立ち上がり、声を張り上げました。

「よし! 我々も、紺碧を歌いましょう!!」

その瞬間、20名近くいたメンバーの表情が今も忘れられません。

「え~?」 っと皆、氷ついたのです。

その瞬間、「あ~、これが早稲田だ」 と思いました。 早稲田の人って、愛校心が薄いんですよね。また、早稲田のOB同士も同属意識は低いように思います。要するに、「早稲田」 という大学に、自分のアイデンティを見い出していないわけです。個人差はありますけれど、慶応出身の方々とは、この点で大きな違いを感じます。

さて、話の続きですが、私は、この同窓会のためにがんばってくれた幹事さんに悪いなと思って、「皆さん、せっかくなので歌いましょうよ」 と声をかけ、半ば無理矢理、立ち上がらせて、 「紺碧の空」 を歌いました。しかし、幹事さん以外は皆、やる気がないので、えらく盛り下がったのを覚えています。私の駐在時、それ以後、早稲田OB会が開かれることは二度とありませんでした。

品性を身につける方法

品性を身につける方法

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品性は努力しなければ身につきません。品性は、生まれつき身についているものではないのです。いいところに生まれた人が品性を持っているのは、子供の時から品性のトレーニングを家庭内で受けているからです。いいところに生まれたからではなく、いいところで育ったから、その感性を磨く厳しいトレーニングを受けているのです。(略)自分にどれだけ品性と感性があるかを、常に意識しておかなければいけません。(略) 品性と感性は実は双子なのです。感性はあるが品性はない、という人はいません。品性と感性は、一つのことの両面になっているのです。

中谷彰宏 : オヤジにならない60のビジネスマナー
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もし、「あなたは人から、どのような人間だと思われたいですか?」 という質問を受けたら、どう答えるでしょう。

これは、「あなたが素敵だと思う人間像を教えてください」 という質問と同じです。人の価値観が問われる質問ですよね。

私は、「品のある人になりたい」 と答えます。

リンカーンの残した言葉に 「Every man over forty is responsible for his face (男は40を過ぎたら自分の顔に責任がある) 」 がありますね。この言葉の意味するところは、品性なのだと思います。

人が努力しなければ身につけられない 「品性」。40を過ぎれば、男性も女性も、品性が顔に表れるということでしょう。自分の顔をみて、人は私の品性を見定めているのかと思うとゾッとします。

そんなわけで、私も鏡とにらめっこしては、「品のある顔になっているのか」 と自らに問うわけですが、残念ながら 「品がありますね」 と人様から声をかけられたことは一度もないんですね。そう呼ばれるようになる日を夢見て、精進を続けるしかありません。

では、どうやれば品性を身につけることができるのでしょうか?

中谷彰宏さんは上述のとおり、「品性と感性は実は双子なのです」 と述べられています。ということは、感性をあげれば、品性もあがるということになります。

「品性を身につける方法」 と考えると難しい。しかし、「感性を磨く方法」 であれば道が見えてきそうです。

「感性」 という言葉から連想を膨らませると、「芸術」 が浮かんできます。

そうであるならば、芸術の中心に位置する絵画、とりわけ絵画鑑賞により感性を磨くという方法は有力と言えそうです。

絵画鑑賞を通じて、人は何を学べばよいのでしょうか。

最終的に 「品性」 に辿り着くことを目的とする場合、それは 「差異に気づくこと」 ではないかと私は考えます。言葉を替えて言うならば 「観察力」 です。

画家が精魂込めて描いた作品を、穴が開くほど懸命に見ていくと、そのミクロの世界に思わぬ発見をすることがあります。例えば、「この空に引かれた一本の緑の線は、近くで見ると違和感があるけれど、離れてみると緑は消えて自然な空の青さに見えるんだなあ」 といった具合に。

そうやって、観察力を磨いていくと、絵画の世界だけでなく、日々の生活においても、人の気づきにくいところに目がいくようになるはずです。

思い起こせば、自分のまわりにも、たくさんの先生がいることに気づきます。

「この人の挨拶の仕方はいいな」
「この人の仕事のときの姿勢はいいな」
「この人が箸を置くときの置き方がいいな」
箸の置き方

もちろん、反面教師もたくさんいます。

こういう差異は、誰もが無意識に感じていることだと思います。観察力のある人は、それを意識化できるのです。意識化できれば、具体的に自分が何を実行していけばよいのかが明らかになります。

それぞれは、目立たない、ほんの小さな違いでしかありません。しかし、その小さな違いが積み重なった時、人に 「品性」 が備わるのではないでしょうか。

「品のいい人」 はこうした過程を経ているはず。だから私も、遅まきながらそれに習おうと思っています。

40歳までに品性のある顔にはなりませんでしたが、60歳くらいまでにはなんとか。。。

紙幣を焼くと執念の臭いがするという話

紙幣が燃える

紙幣を焼く臭い

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日本銀行に勤務していた三十年以上前のことです。市中銀行から戻ってきた古い紙幣のうち再利用できないものを、当時は敷地内の焼却炉で焼いていました。鼻を突くそのにおいを、初めてかいだときはびっくりしました。人の手を渡るうちに、紙幣には情念や喜怒哀楽が染み込む。煙のにおいは、人間の執念のにおいに思えましたね。

斎藤精一郎  千葉商科大学名誉教授 - 日経新聞の記事より
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紙幣を焼いてみたらどんなニオイがするのでしょう? そんなことをすると罰があたりそうですから、なかなか実行に移せる人はいないでしょう。私もできません。

紙幣はインクで印刷された紙にすぎません。その紙を触わった人はたくさんいるでしょうから、古い紙幣には人々の指の脂が付いているはずです。したがって、お札を焼くと、紙とインクと脂のニオイがするのは理解できます。

しかし、斎藤教授は、そうした科学の次元で想定されるニオイを超越したものが、焼いた紙幣にはあると言います。それを “人間の執念” と表現されました。

“人間の執念” にニオイがあるというのは、もちろん現代の科学では証明できないことです。それでも、直感的に、私は斎藤教授の述べられたとおり、人間の執念にはニオイがあり、物質に浸透するのではないかと思うのです。

身近な例でそれを感じるのは、例えば築年数の古くなったマンションの前を通ったりするときです。マンションは “モノ” ですけれど、住民の皆さんが愛をこめ大切にされているマンションには、芳香が漂うように感じます。一方で、住民が“ 物” としか見ていないようなマンションは、管理会社が掃除をしていても独特の臭気を感じます。

“人間の思い” と “モノ” の関係について、さらに考えを進めてみると、“人間の思い”は “ニオイ” に限らず、多様な要素が “モノ” に浸透して、それが “モノ” に備わる “気”、もしくは “オーラ” を作り出しているのではないかと私は思うのです。

私が今まで観た絵で一番強いオーラを感じたのは、ロンドン・ナショナルギャラリーにあるダ・ヴィンチの 「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」 でした。
聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ

実際にロンドンでご覧いただいたらわかりますが、近寄りがたい神々しさがあります。この絵の持つオーラは、ダ・ヴィンチの書いた絵そのもののパワーもさることながら、それ以上に、数知れぬ人々が感動した、そのエネルギーがこの絵に乗り移ったことにより作られたと私は考えます。

ダ・ヴィンチの作品は極端な例ですけれど、要は人が何らかの思いを持って “モノ” に接すれば、思いが “モノ” に投影されるわけですから、それは物質的な “物” ではなくて、ある種の人格を備えた “モノ” になると思うのです。

作家、開高 健は 「生物としての静物」 という名著を残しています。
生物としての静物

これは文豪が愛した身の回りの数々の品、パイプ、ライター、万年筆、帽子等の 「静物」 が、自分にとっては 「生物」 となっている、というエッセイです。私は高校生の頃、この文章を読んで面白いと思いましたが、「モノにも人格が宿る」 という文章を頭で理解はできても、身体感覚ではわかっていませんでした。歳を重ねた今は理解できます。

紙幣に限らず、人間の思いを載せたモノには人格が宿り、ニオイもあります。愛を込めて接してあげれば輝くし、粗雑に接すれば朽ちてゆくのも早い。そんなわけで近ごろは 「“生物” も “静物” も、全てに愛をこめて接しよう」 と思うようになりました。

こんな私ですので、妻の財布をのぞいてみて、紙幣が皺くちゃになっているのを発見すると、怒ってしまいます。「御札にだって人格はあるんだ。人々の執念が込められて大変な思いをしているんだから、せめて自分の懐におられる間は大切に扱ってあげないと」 と話しても、当然、理解されません。妻も 「変な人と結婚しちゃったなあ」 と思うのでしょうが、御札に愛想つかされたら我が家の家計も困ります。ここは私も譲れないところ。大切に扱って欲しいものです。
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