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”整理・整頓” と ”美しい・きれい”

アインシュタインの机の上
*写真上 : アインシュタインの机の上


「整理・整頓」、子供の頃から耳タコの言葉ですが、このふたつの言葉の意味の違いを意識している人は少ないと思います。私自身も近年まで違いを知りませんでした。

けれども最近、このふたつの言葉の違いを認識することは、美しい仕事をめざすうえで大切だと私は考えるようになりました。

前稿でお伝えしたのは;

・「きれい」と「汚い」。これはどちらかというと、外観(視覚)に基づく言葉。
・「美しい」と「醜い」。これはどちらかというと、(人の)内面に基づく言葉。

ということでした。

この箇所を書いているとき、ふと閃くものがあったのです。

「整理・整頓」 の意味も同じことではないのかな、と。

・整頓 = 外観を整えること = きれい
・整理 = 内容を整えること = 美しい

これを日々の生活に置き換えると次のようになります。

・オフィスの机の上を整えること      = 整頓
・オフィスの机の引出しの中を整えること  = 整理

・パソコンのデスクトップ画面を整えること = 整頓
・パソコンのフォルダー環境を整えること  = 整理

このように考えれば、整理と整頓は全く別のものですよね。「整理・整頓」の一語として考えるものではありません。

では、整理と整頓、我々はどちらをより意識するべきなのでしょうか。

私は整頓だと思うのです。

整理と整頓では、整頓の方が簡単です。簡単な整頓という行為をおろそかにしていると、一歩進んだ整理までは手が届かず、自分のまわりの環境はどんどん複雑化していってしまうのではないでしょうか。

冒頭の写真はアインシュタインの机ですが、このように混乱した机で美しい仕事ができるのは一部の天才に限られるでしょう。

日々、整頓を心がけていれば、机の上はきれいです。朝、オフィスに来たとき、きれいな環境だと元気が出ますよね。視覚面から整えるってことはとても大切だと思うのです。

そういう環境であれば、忙しい日が続いて机の中が混乱していても、時間が空いたときに「今日は整理しようか」という気になれるでしょう。 (下の写真はビル・ゲイツの机です)
ビルゲイツの机の上

このように考えると、「整理が先、整頓は後に行なう」ということも、「整理・整頓を同時に行なう」ということも、実践できる人はいないのではないでしょうか。私は確信を持って「整頓が先、整理は後に行なう」だと思うのです。

小学校から教えられる「整理、整頓をしましょう」という言葉にも問題があります。

「整頓、整理をしましょう」と言葉の順序を変え、子供には整頓と整理の意味の違いを明確にして頭に叩き込ませる。これが後の人生において大きな差につながるはずです。

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(追記)
以前、「整理と整頓の違いは何でしょう?」 という記事を投稿したことがあります。もしよろしければ御覧ください。
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美 と 知 と 歳 と

安野光雄 きれいと美しい


カスタムヘリテイジ912 (FA) - パイロット (ペン)
霧雨            - パイロット (インク)


岸田劉生の『美の本体』という、むかしよく読まれた本があります。その中で、「『美しい』と『きれい』とはちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。(中略)
「きれい」というのは、「汚い」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪な部分までも含んでいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇画に描かれたキリストは、目を覆うほどのおできや腫れ物で覆われています。(中略)
「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。

安野光雅 ― 絵のある人生

グリューネヴァルト
グリューネヴァルト : イーゼンハイム祭壇画
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このブログを立ち上げてから、「美」というものは何だろう、と何度も自らに問い続けてきました。

先日、画家の安野光雅さんが書かれた「絵のある人生」という本をを読んで、この問いに対する理解が深まった気がします。

・「きれい」と「汚い」。これはどちらかというと、外観(視覚)に基づく言葉。

・「美しい」と「醜い」。これはどちらかというと、(人の)内面に基づく言葉。

われわれは、日々の生活において 「きれい」 と 「美しい」 を混同しがちですが、なんとなく、そんな使い分けをしているのではないでしょうか。

例えば、「醜い心」という使い方はありますが、「汚い心」という使い方はあまり見ません。

また、「美しい旋律」という言葉はありますが、「きれいな旋律」という言葉には違和感を感じます。このことは、「旋律」という言葉が、視覚ではなく聴覚に基づく言葉であり、「聞く」という行為は人間の内面と結びついているということを指しているのではないでしょうか。

ものごとに対する価値判断というのは人それぞれです。例えば、あるモノを指して、「美しい」と思う人もいれば、「美しくない」と思う人もいます。

この価値判断における個人差を考えた場合、外観の価値判断となる「きれいか否か」のブレ幅は狭く、内面の価値判断となる「美しいか否か」のブレ幅は広いと言えそうです。 その理由は何でしょうか。

まず、「美しいということ」の意味を考えてみたいと思います。

安野さんは上述のとおり;

― 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。

と述べられています。

このことは、以前、佐々木健一教授の「美学への招待」をご紹介した折にお伝えしたとおり、「 ”beautiful” の訳語としては、 ”すごい” がピッタリ 」 という話と重なります。

すなわち、「美しいと感じること」は、「感動すること」に他ならない、といえそうです。

ではもう一歩進めて、感動を誘発する要素は何なのでしょうか?

私は知性だと思うのです。

ということは、人の知性レベルが上がれば、それに応じて美への感受性が高まるということになります。

これは例えば、若い頃、ある骨董品に接して美しいとも何とも感じなかった人が、知性に磨きがかかった何年後かに同じ骨董品に接したら美しいと感じた、という状況をイメージするとご理解いただけると思います。

一方、「きれいと感じること」に対しては、若い頃も、齢をとってからも、価値判断は変わらないのではないでしょうか。

すなわち、「美しいか否か」の価値判断は、同じ人ですらその事柄に接した年齢で価値判断が変わりうるほどですから、「きれいか否か」の価値判断よりも個人差が広がるのは当然のことと言えるでしょう。

さて、このように考えると、知性を向上させる努力を惜しまない人は、歳を重ねるにつれ、若い頃には見えなかった美しいものが見えてくる、感動する機会が増えてくる、というということになりますね。

一般的に、人は歳をとることを「老化」と呼んだりして、ネガティブにとらえています。たしかに、肉体は年々衰えてゆきます。しかし、歳とともに知性を向上させる人は、美の感受性が高まり、日々の生活において、感動する機会が増えてゆきます。それは、肉体の衰えをはるかに越えるほどの喜びではないでしょうか。

「齢をとるって、すばらしい」 と皆が思えるような世の中に変わっていくのが、人間として本来のあるべき姿ではないかと私は思っています。


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(追記) 2015年5月30日

ネットを見ていたら、すばらしい言葉を目にしました。

「老年は山登りに似ている。 登れば登るほど息切れするが、視野はますます広くなる」
イングマール・ベルイマン  (スゥエーデンの映画監督)

頂上に立ったとき、一番美しい景色が見えるのでしょうね。

ポルトガルの魅力と美的感覚と。。。

玉村豊男 ポルトガル

ツイスト - ペリカン (ペン)
モスグリーン - ファーバーカステル (インク)


私は、ポルトガルが大好きです。焼き魚と米を食べるポルトガル料理に親しみを抱く日本人は多いと思います。(中略)
なによりも魅力的なのは、ポルトガルの人たちです。どの人も、ラテン系の民族とは思えないほどシャイで、昔の日本人のように慎ましい。

玉村豊男 : 今日よりよい明日はない

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私がまだ若い頃ですから、ずいぶん前のことになります、会社の常務を囲んだ食事会がありました。

その席で、元常務はこのように述べました。

「ヨーロッパは多くの国を訪れけれど、一番、嫌いなのはポルトガルだな。あの国はダメだよ」

この言葉を聞いたときは意外に思いました。なぜなら、私がそれまで訪れたヨーロッパの国で一番好きな国がポルトガルだったからです (今も変わりません)。

ポルトガルという国は、大航海時代に栄華を極め、それ以降は寂れてしまった国です。今も寂れています。しかし、その寂びれた感じが、私の感性にはピッタリはまりました。ヨーロッパにおいて、日本人の感性に最も近い国ではないかと思ったのです。

まず、玉村さんが指摘されているとおり、ポルトガルはヨーロッパでは珍しく、米と魚をよく食べる国です。

ヨーロッパでお米を使った料理といえば、スペインのパエリアや、イタリアのリゾットがありますけれど、両国において主食は米ではありません。ポルトガルでは、米は主食の位置づけですから、ランチタイムに街の食堂で定食を頼むと、メインディシュの横に白飯が(日本のそれとは違いますけど)添えられてきます。

また、国民性も玉村さんのコメントのとおり、一般的に大人しいです。隣国のスペインの方々とは、雰囲気がまるで違います(もちろん、サッカーのクリスチアーノ・ロナウド選手のように、熱いタイプの人もいます)。

リスボンの路面電車

上はリスボンの旧市街を走る路面電車の写真です。このように狭い空間を目一杯に使うセンスって、日本文化に通じるものが感じられないでしょうか。

私は日本をよく知るポルトガル人に会ったことがないのですが、おそらく彼らも日本とポルトガルの文化の相関性を感じておられるはずです。

さて、上述の元常務の話に戻ります。

その方は常務まで出世されたわけですから、一緒に仕事をしたことはありませんでしたが、仕事は優秀だったのでしょう。

しかし、これからは、ポルトガルの良さを理解できないような方は、出世するするのが難しい社会になってゆくのではないかと思うのです。

このことは、ちょっとわかりにくいかもしれないませんが、おつきあいください。

ポルトガルという国の魅力は他の西欧諸国と比べる場合、たしかにわかりにくいのです。なにしろ寂れていますから。そのわかりにくさに美を感じられるかどうかの鍵は、その人の「美の感性」が握っています。

サッカーに例えるならば、点取り屋のエースストライカーのすごさは、誰がみてもわかります。しかし、サッカーはエースストライカーだけでは勝てません。「点数」 という価値観だけでは評価できない、目立たないけれど良い仕事をする選手の存在がどうしても必要です。サッカー監督には、こうした 「目だたないけれど大切な選手」 を見抜く技量が求められます。

こうした技量は、「美の感性」 によるところが大きいと思うのです。なぜなら美の感性が高いレベルにある人は、一般の人が見過ごすようなところにも美を見い出すことができるからです。

企業の場合、経済が右肩上がりの時代であれば、会社におけるエースストライカーだけを調子よくさせておけば、業績も伸びたことでしょう。しかし、高度成長の時代が終わり、国際的な競争が激化する環境下では、メンバー全員の力を最大限に発揮させなけければ生き残れません。すなわち、サッカー監督同様、目だたないけれど良い仕事をする選手を見抜く力がトップに求められる時代、トップに「美の感性」が求められる時代になっている、ということです。

今年のイギリスのサッカー、プレミア・リーグを制したのはチェルシーでした。チェルシーの監督はポルトガル人のジョゼ・モウリーニョ。
モウリーニョ監督とポルトガル

私は彼のサッカーをよく知りませんが、ポルトガル人特有の美的センスが彼の成功要因のひとつではないかと思っています。

世界の住みやすい都市ランキングと不動産価格

モノクル誌

英国情報誌モノクル(MONOCLE)から発表されている2014年版の「世界でもっとも住みやすい25都市ランキング」のうち、ベストテンにはなんと日本の都市が3箇所も含まれている。実際にこれらの都市の顔ぶれをみると、世界の都市に対する評価の視点を垣間見ることができて非常に興味深いものがある。

ZUU online 2015年5月16日

世界の住みやすい都市ランキング

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私は知りませんでしたが、イギリスにモノクルという雑誌があるそうです。2007年に創刊されたばかりなのに成功をおさめており、日本経済新聞が資本提携をしているとのこと。

そのモノクルが選んだ 「世界でもっとも住みやすい都市」 のベスト10に、日本の3都市が含まれるというのですから驚きました。

そのベスト10は次のとおり。

1位  - コペンハーゲン (デンマーク)
2位  - 東京
3位  - メルボルン (オーストラリア)
4位  - ストックホルム (スウェーデン)
5位  - ヘルシンキ (フィンランド)
6位  - ウィーン (オーストリア)
7位  - チューリッヒ (スイス)
8位  - ミュンヘン (ドイツ)
9位  - 京都
10位 - 福岡
 

一方、イギリスの権威あるエコノミスト誌が2014年に選んだベスト10は次のようになっています。

1位  - メルボルン (オーストラリア)
2位  - ウィーン (オーストリア)
3位  - バンクーバー (カナダ)
4位  - トロント (カナダ)
5位  - アデレード (オーストラリア)
6位  - カルガリー (カナダ)
7位  - シドニー (オーストラリア)
8位  - ヘルシンキ (フィンランド)
9位  - パース (オーストラリア)
10位 - オークランド (ニュージーランド)


この両誌、評価はかなり異なります。重なっているのは、メルボルン、ヘルシンキ、ウィーンの三都市のみです。「住みやすさ」 に絶対的な基準がない以上、評価基準次第で結果に差が出るのは避けられません。

さて、まずモノクルを見ると、北欧が三都市、上位にランクインしていますね。

私はこのうち、ヘルシンキには何度か行ったことがあります。たしかに夏はすばらしい街。最高です。しかし、冬は寒い。おまけに白夜ですからね。日が当たらない一日というのは、旅行で行くぶんには珍しくて楽しめるものの、これが日常となったらどんなものかなあ、、、と思います。北欧諸国では冬になるとうつ病患者が増えるという話を聞いたことがありますけれど、それも理解できます。

そんなわけで、北欧の三都市ランクインに関しては、個人的にちょっとだけ疑問符が付きます。

次にエコノミスト。ヘルシンキ以外は全て英語圏です (ヘルシンキも教育水準が高いから、英語で全て通じてしまいますが)。オーストラリアが5都市、カナダが3都市ですから、これもまた偏りすぎに思えます。

公平にみると、モノクルの方が幅広い視野で選出しているのではないでしょうか。

それはともかくとして、今回、モノクルが日本の三都市を選んだのは驚きました。欧米の方々が、「住みよい都市」 として、言葉もロクに通じない日本の都市を選ぶというのは、スーパーなことです。

私自身、海外に住んだり、よく出張で海外に行きますけれど、自分が日本人ということを差し引いて考えても、日本は世界でも屈指の住みやすい国だと思うのです。

だからこそ、今回のモノクルの評価には納得できるし、そんな冷静な目を持つモノクルって雑誌はすごいな、と思います。

では何がすごいのでしょうか。私が思いつくのは次のような点です。

・高い教育水準
・すぐれた治安
・美味しくバラエティに富んだ食べ物 (日本食に限らず)
・四季の変化 (実はこれを実感できる国はあまり多くありません)
・豊かな自然
・交通を初めとしたインフラの整備
・おもてなしの精神

日本にいると、これらはあたりまえに思えてしまいますが、世界の基準で考えれば日本は突出した位置にいるのです。

現在、日本政府は成長戦略として 「観光立国」 を目玉にあげ、外国人観光客は急増しています。しかし、これはまだ宵の口にすぎません。観光ビジネスの視点でみれば、日本はまだまだ計り知れないポテンシャリティを持っています。外国人観光客や外国人移住者は、今後、勢いを増して増加してゆくはずです。

今から20年後をイメージすると、私には、東京や京都のみならず、地方まであふれる外国人の姿が目に浮かびます。

そんな時代、日本の不動産価格ってどうなっているのでしょうか。

日本は少子化 → 人口減 → 不動産価格は今後低下する

という論調をよく目にするのですが、本当にそうでしょうか ?

日本の魅力に世界の人々が注目すればするほど、不動産価格は上昇してゆくのが自然の流れだと思います。

20年後、このブログの文章をを読み返したとき、自分はどう思うんでしょうね。

「やっぱり、俺って天才だったのね」 と思うのか、「ハズれた ~」 と思うのか、、、

トマト冷茶漬け

トマト冷茶漬け

夏が近づいてきましたね。

蒸し暑くて食欲の落ちる日、毎回そうめんでは飽きてしまいます。何か新しい料理を作ってみたいと思いました。

そこで考案したのが、このトマト冷茶漬けです。

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=材料 (4人前)=

・トマト 2個 (中サイズ)
・塩   小さじ1
・生姜のすりおろし  小さじ1
・めんつゆ 800cc (麺の「かけつゆ」の濃さで)
・かつおぶし
・海苔

=作り方=

1) ご飯は常温に戻しておく (本当に冷たいのがお好みなら冷蔵庫で冷やすのも可)。

2) トマトを粗くみじん切りにする (上記の写真の作品は、プチトマトを使用しています)。ボールに刻んだトマトを入れて、重量の1%強の塩をふり (トマト中サイズ2個なら、塩は小さじ1程度)、10分以上おいておく。

3) 上記2)をザルで漉し、水分を切る。

4) 上記3)を容器に移し、めんつゆ800ccと生姜のすりおろし小さじ1を加え、冷蔵庫に保管して味をなじませる (1時間以上)。

5) 器にご飯を盛り、トマトとつゆを注ぎ、その上にかつおぶしと海苔をかけて完成。

===================

トマトをそのままお茶漬けにしても、青臭く、また水っぽくて、茶漬けの具材にはなりません。塩を利かして味を付けるのと同時に、トマトの水分を排出することで、旨味が凝縮し、茶漬けの具材になります。

トマトの酸味と甘味、生姜の辛味が効いて、スルスルと胃におさまる一品です。カロリーも低く、酒を楽しんだ後の最後のシメにも最適だと思います。

なお、完成後、お好みで、すりおろし生姜を添えていただいくのもよいでしょう。

先日、友人にふるまったら大好評でした。お試しいただければ幸いです。

等身大の己を知ること

桜井章一の言葉

LAMY 2000 (M)     (ペン)
紺碧 ― パイロット (インク) 


桜井章一  : 人生を変える美しい勝ち方

「自信がない人」と「自信過剰な人」。まったく正反対に見える二人ですが、共通するものがあります。それは、ともに自分を等身大でとらえていないということです。自信とは、己を信じるのではなくて、等身大の己を知っているということなのだと思います。それが本当の自信です。等身大で己をとらえることがなぜいいのか? それは自分の限界がわかるからです。

====================

前稿に続きまして、「自信」 について考えてみたいと思います。

上述の言葉は、現役時代、無敗を通したという伝説を残しているプロ雀士の桜井章一さんによるものです。
人生を変える美しい勝ち方

私は麻雀をやりませんけれども、厳しい勝負の世界で戦い続けてこられた桜井さんの言葉に共感するところが多く、「なぜ羽生名人はコンピューターに負けても余裕なのか」 という稿で、桜井さんの言葉をご紹介したことがあります。

さて、前稿では、「自信」について次のようにお伝えしました。

++++++++++++++++++++
「実力の自分」 の10パーセント増しくらいの自信を装うのが、周囲との軋轢も生まず、精神的な負担もなく、プロとして持続的な成長を続けるのに適切なレベルではないかと考えます。
++++++++++++++++++++

ここで大切だと私が考えるのは、「自分の実力」 をどう判断するか、ということです。桜井さんの言葉に換えるなら 「等身大の己を知ること」 です。

「等身大の己」 を見誤ったまま10%増しの自信を装っても、成長はおぼつきませんよね。したがって、プロとして成長してゆくに際して欠かせない最も重要な要素は、「等身大の己を知ること」 ではないかと私は思うのです。

しかし、人間は自分の姿を直接見ることができないわけですから、等身大の己を知るというのは、大変難しいことです。

「三浦知良選手の強みは幽体離脱の能力にあり」 という稿でお伝えしたことがありますが、組織におけるビジネスマンは、なおさら自己を客観視するのが難しい環境にあります。この点はプロスポーツ選手をはじめとした、独立して生計を立てていかねばならない職業の方々とは異なります。

では、どうすれば、等身大の己を知る能力を磨くことができるのでしょうか?

私は、自らが工夫して、日々、思考訓練を積み重ねる以外にないと思うのです。

たとえば、将棋を指しているとき、自分が 「この局面は自分が苦しいな」 と思っても、将棋板をひっくり返して相手の側から見てみると、むしろ自分の方が優勢と感じることもあります。そういったことから、将棋や囲碁は、「相手の立場から自分を見ると、どう映るのか」 という能力を磨くのに役立つと言えます。

また、私はマジックが好きなのですが、マジックを演じることも幽体離脱能力を養うのに役立ちます。このことは 「子供の情操教育にマジックが良いとゲーテは考えた」 でお伝えしたとおりです。

このように、自らが意識しなくても、自然に客観的な視点を鍛えるのに役立つトレーニングもありますが、それ以外にも日常生活のちょっとした工夫で鍛える機会はたくさんあると思います。

例えば、美術館に行って、気に入った絵をじっと眺めてみる。自分がその絵を描いた画家本人になったつもりになって、「なぜこの題材を選んだのだろうか」、「どういう順序でキャンバスに筆を置いていったのだろうか」、「なぜこの箇所でこの色を使ったのだろうか」、といった思考訓練を重ねるのもひとつのやり方だと思います。

さらに言うならば、組織におけるビジネスマンの日々の仕事だって、全てトレーニングになるはずなんです。一本のメールを打つにせよ、「相手から見たらこの文はどう映るのだろうか」 ということを意識するか否かで、文体は微妙に変わってくるはずです。

しかし、忙しい仕事の時間においては、仕事の山を片付けることに追われてしまい、なかなかそこまで意識するのは難しいですよね。

そのように考えると、プライベートの時間に、軽い気持ちで、客観的視点を鍛える思考訓練を意識してみるのがよいのではないでしょうか。日々のちょっとした工夫の積み重ねが、やがて 「等身大の己を知ること」 につながると私は信じています。

ジュリア・ロバーツ流、自信をつける方法

ジュリア ロバーツ 自信

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松永真理 :  i モード以前

(*学生からの質問) 「自信を持つにはどうしたらいいんですか」
ジュリア・ロバーツは答える。
「自信があるフリをするのよ。新人のときはいつもそうだった。でもそうしていくうちに、いつか自分のものになっていくの」


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ジュリア・ロバーツという女優さんを初めて見たのは、「プリティ・ウーマン」 でした。私はハリウッド映画って全般的に苦手なんですけれど、「プリティ・ウーマン」 は大のお気に入りです。ジュリア・ロバーツもかわいかったけれど、それにもましてリチャード・ギアのカッコ良さが印象に残っています。
プリティ ウーマン

彼女は1967年生まれなので、この映画のとき23歳。この方の映画は 「プリティ・ウーマン」 以外、私は観ていないので、頭の中にあるジュリア・ロバーツは23歳の頃のままなんです。けれども、もうじき50歳になられるんですね。どうりで自分もオジサンになるわけです。

さて、上段の言葉は、大女優が学生との対談番組で残したものです。

「自信があるフリをするのよ。新人のときはいつもそうだった」 の言葉にある 「新人のとき」 とは、おそらく 「プリティ・ウーマン」 で大ブレークする前まで、女優としてキャリアの芽が出始めた頃のことを指していると思われます。

私はこの言葉をみて意外に感じました。というのは、私が仕事で出会ったアメリカ人を振り返ってみると、自信過剰気味の方が多かったからです。アメリカって、そういう文化なんだと思っていました。

ところが、この文を読んで、アメリカ人でも 「自分に自信を持てない」 と思って悩んでいる人が大勢いるということがわかりました。大女優による上述の言葉も裏を返せば、かけ出しの頃は 「自分に自信が無かった」 と告白しているくらいなのですから。
ジュリア ロバーツ

実際、厳しい競争社会のアメリカで生き残っていくためには、実力以上の自分を装わねばならないのでしょう。ジュリア・ロバーツもオバマ大統領もそうやって 「装う自分」 を追いかける形で実力が付いていったはずです。

しかし、装いの自分と実力のGAPが埋まらない人の場合、やがて自らの心のあり方に変調をきたしてしまうはずです。アメリカにおいて精神分析医にかかる患者数が桁外れに多いのは、こうしたアメリカ文化に原因があると思います。

自信過剰な人が多いアメリカと正反対に、日本は自信過少な方が多いように感じます。一見、自信なさげな方が、よく話してみるとすごい底力を持った方だった、なんてことがあります。

こうした方をジュリア・ロバーツ理論で考えると、「自信のないフリをしていると、実力も自信のないフリをしている自分のレベルに落ちてしまう」 ということになります。自分の経験からみて、これは正しいように思います。もったいない話です。

では、「実力の自分」 と、 「自信を装う自分」 のバランスをいかに保つべきなのでしょうか。

ソフトバンクの孫社長は、会社を立ち上げた際、二名のアルバイト社員の前で 「立ち上げた会社を10年で年商500億の会社にする」 と宣言したそうです。孫さんのように数百パーセント増しの自信を装ち、心折れずに進める方は稀です。

そのように考えると、私は 「実力の自分」 の10パーセント増しくらいの自信を装うのが、周囲との軋轢も生まず、精神的な負担もなく、プロとして持続的な成長を続けるのに適切なレベルではないかと考えます。

10パーセント増しの自信を持った自分を装い、それに自分が追いつこうと努力を続けてゆけば、10年後に自分の器はスタート時の2.6倍に、20年後には6.7倍になります。

私自身、今でも 「自分には荷が思いなあ」 と思う局面にちょくちょく出くわします。そんなときは、少し背伸びをした、装いの自分に成りきって挑むように心がけています。ジュリア・ロバーツのように 「そうしていくうちに、いつか自分のものになっていく」 ことを信じながら。

西郷さんの伝記で感じた世のデタラメのありがたさ

西郷の征韓論
カスタム743(M) ― ペン
色彩雫 紫式部   ― インク


日本の伝記 西郷隆盛   (解説:立教大学教授  蔵持重裕)

西郷は結局政府を去ってしまいます。従来は西郷が征韓論をとなえ、大久保らに反対されて下野したといわれてきました。しかし、どうもそうではなく、武力侵略を主張する板垣らをおさえ、平和的な交渉によって国交を開こうと、西郷自身が使節になることを主張したのです。

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日本の歴史上、最も重要な局面であり、かつ、極めて状況が複雑でわかりにくいのは、明治維新前後と太平洋戦争前ではないでしょうか。

明治維新前後のところは、司馬遼太郎の作品をいくつも読み、それなりに理解してきたつもりですが、それでも頭に焼き付けるのは大変です。そこで先日は、娘の本棚にあった、西郷隆盛の伝記マンガを読んでみました。
まんが 西郷隆盛

そこで自分にとっては青天の霹靂ともいえる、驚きがありました。

私は大学受験の時 「征韓論を主張する西郷は、明治政府と対立し、政府の要職を辞任した後、鹿児島に戻った」 と習いました。

ところが、上述のとおり、現在は正反対に 「西郷は征韓論に反対した」 とみられているのです。

戦国時代のように遠い昔のことであれば資料も少ないですから、資料の発見とともに歴史の解釈が変わることは理解できます。しかし、維新の頃になれば資料もたくさん残っているはずですから、普通に考えればこれほど大きな差異は生じないはず、と歴史学者でもない一般人は思ってしまいます。

今回の件を通じ、歴史の教科書の記述には事実に反することが、まだまだ沢山残っているという現実を、改めて思い知らされたしだいです。

それにしても、私が大学受験をした頃、「西郷隆盛は政府の要職を辞し、鹿児島に戻った。その理由な何か述べよ」 という問題を出した大学もあっただろうと思うのです。

この当時でも、「実は、西郷は征韓論に反対の立場をとっていた」  という説はあったでしょう。この説を知っている歴史マニアの受験生がいたとして、この問題に対して 「韓国への武力侵略を主張する明治政府に反対したため」 と回答したら不正解だったことになります。

もしかしたら、ここでの減点が響いて、彼(彼女)は希望の大学に合格できなかったかもしれません。

歴史の問題における西郷さんの話は氷山の一角にすぎず、歴史以外でも受験におけるミスは数えきれないほどあるはずです。毎年、多くの受験生がそのおかげで泣き、笑っています。

受験ならば、まだ点数で決まるだけマシかもしれません。就職試験における採用・不採用の基準なんて、よくわからないですもんね。

そう思うと運命って、はかないものだなあ、と思います。

大学受験や就職で人生の全てが決まるわけでは全然無いし、希望の大学や企業に不合格だったことが幸いしてその後の人生がうまく進むことだってあるかもしれません。

それでも、やはり大学受験や就職は人生における重要なターニングポイント。それが、こんなデタラメなことで左右されて良いものかと思ってしまいます。

しかし、よく振り返ってみれば、受験や就職に限らず、人生はデタラメの連続です。この世は 「デタラメ」 というモノで埋め尽くされていると言ってよいくらいです。デタラメが存在しないのは、数学や物理の理論の世界くらいなものでしょう。

この世に、数学や物理の世界のように、デタラメというものが存在しないとしたら、何と味気ないものになってしまうことか。デタラメのおかげで、人生にドラマが生まれ、人は泣き、笑い、楽しむことができると思うのです。

そう思うと、デタラメって、ありがたいものかもしれません。

デタラメが自分にとって吉と出るときでも、凶と出るときでも、等しくデタラメを味合う。そんな仙人のような境地に私も達したいものですが、道は遠そうです。


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以前、中学校の英語の教科書における間違いについてお伝えした 「間違いのある教科書で授業を受けた世代です」 という稿もあります。もしよろしければ御覧ください。

高倉 健さんの美しい生き様

高倉 健の生き方

3776西sai         :  プラチナ万年筆
ヴァイオレットパープル : エルバン

週間文春 2014年12月4日号
高倉健 「最後の日々」

元ヤクザから見るとダンビラ(日本刀のこと)や拳銃持って向ってくるシーンを演じてヤバイと思わせる俳優は、高倉健と丹波哲郎だけさ。(中略)ただ、健さんが本物のヤクザになっていたら、多分親分にはなれないさ。親分というのは、卑怯でズル賢くなかったら生き残れない。健さんはまっすぐで勇敢すぎるから、早く死んでしまっただろうな。

安部譲二 (作家)
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高倉 健さんが亡くなれて、多くの方が追悼文を寄せられていました。その中で、作家の安部譲二さんのコメントを見て、なるほどな、と思いました。

ヤクザにかぎらず、軍隊だろうが、役所だろうが、政党だろうが、企業だろうが、PTAのような非営利組織だろうが、組織における親分として欠かせない才能のひとつは、 「卑怯でズル賢いこと」 なのかもしれません。

高倉健さんの生き様は、映画もそうでしたが、実生活でも 「卑怯でズル賢い」 というところから、最も縁の遠いものであったように感じます。

健さんのように、まっすぐで勇敢な生き方は、「損か得か」 の価値観で言えば、「損」 でしょう。 「バカか利口か」 と言われれば、「バカ」 です。

そういう生き方でも通用するのは個人の力で生きていく世界に限られます。一方、現代において個人の力で生計を立てられるのは一握りの人だけであり、ほとんどの人々は、組織に守られて生きています。

組織で生き残っていくために、人はズル賢い面を持たざるをえない。これが人間の性であり、ゆえに組織内におけるゴマスリは絶えることなく永遠に続くものでしょう。

我々が高倉 健さんに深い共感や感動を覚えたのは、自分の実生活では貫徹できない、「ズル賢い」から縁遠い生き方、すなわち、バカで損な生き方に、「美」 を感じたからではないかと思うのです。

もしかすると、高倉 健という人は、自らの生き様を 「アート作品」 として表現していたのかもしれません。

さて、自分の会社人生を振り返ってみると、「損得」 なら得を選び、利口な生き方を選んできたように思います。そのおかげで、クビにもならず、ここまで家族を養ってくることができました。

けれども、50歳という節目も近づいてきて、バカで損かもしれないけれど、仕事でも美しい生き方を優先していきたいな、と思うようになりました。

自分の引退後、後輩たちから 「あの人はズル賢かったね」 と言われたくない。

「あの人は高倉 健さんみたいに、不器用でまっすぐだったね」 と言われたら最高です。
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