スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アーティストとマネージャー、共通の苦悩

フィンランド流
ペン  = ペリカン : M800 (Fニブ)
インク = モンブラン : ロイヤル・ブルー

「忙しいことは、実は『気分のよいこと』なのだ。計画する、というのは、メールを書いたり会議をやるのとは違う総合的な仕事で、いろいろな要素があり、どこから手をつけていいのか迷う高度な仕事だ。だからつい後回しにして、現場の作業をすぐに始めてしまうのだ。私たちは、会社に行くと、まずパソコンを立ち上げて溜ったメールを読み、返事を書くのではないだろうか。すると、あっという間に10時の会議の時間が来る。午後も会議の連続だ。忙しい、実に忙しい。疲れる。だが、じっと考えることに較べれば、なんと気楽なことだろう。忙しいのは快感なのだ。」

田中健彦著:フィンランド流 社長も社員も6時に帰る仕事術


若い頃は、ルーティーンワークに追われ、本当に忙しかったです。早く帰る上司が羨ましかった。深夜残業や週末出勤しなければ終わらない仕事の山。「いつになったらこんな日々から開放されるのか。。。」と途方に暮れていました。

しかし、その一方で、オフィスに一人残り、ひたすらマシーンのように仕事を片付ける自分に、微かな陶酔感を覚えていたのも事実です。あれは一種のマラソンにおけるランナーズハイのようなものなのかな、と今は思います。「つらいなあ」と思いつつ、同じことをひたすら続けて限界点を越えると快感になってしまう、人間の脳にはそんな働きがあるのかもしれません。

さて、自分が管理職の立場になってみて、ルーティーンワークの比率はどんどん減ってゆきました。若い頃に憧れていた仕事のスタイル。しかし、ルーティーンワークの減少と、自分の裁量で進められる仕事の増加は辛いことでした。少なくとも私にとっては。

リーダーの仕事は何かと考えると、私は次の6つに集約されると考えます。

1)現状把握
2)目的・目標の設定
3)戦略の立案とその優先順位の決定
4)資源配分の決定
5)判断業務
6)結果に対する責任

このうち、もっとも難しいのが「2)目的・目標の設定」です。

なぜ難しいのか。

個人として生きるに際して、目的・目標は、必ずしも必要でないと私は考えています。これについてはまた別の機会のお伝えしたいと思います。

しかし、組織は、目的・目標を必要とします。集団である以上、各自の目指す方向がバラバラでは成果をあげられないからです。

組織の目的・目標は、「達成がやさしすぎず、がんばれば実現可能な水準」であり、かつ「組織および個々の社員の将来につながるもの」でなければなりません。それが、「皆が納得できる目的・目標」ということになります。

「皆」とは、部下だけではありません。上司、もしくは最終的には株主までが、納得できるものであることが求められるのです。

「皆が納得できる目的・目標」の設定、これを導くためのマニュアルはありません。リーダーの創造力にかかっています。

ピーター・ドラッカーは「ビジョン以外は全てアウトソースできる」という言葉を残しています。彼がその言葉を向ける対象としてイメージしていたのは企業経営者だったでしょうから、一般のビジネスパーソンにこの言葉を変換するなら「目的(=オブジェクティブ)以外は全てアウトソースできる」ということになりましょう。

逆に言えば、組織の目的・目標を考えるのは、リーダーにしかできない仕事(=アウトソースできない)であり、難しい。辛い。だから逃げたくなるのです。

私は自分がそんな立場に置かれて、初めて、アーティストの苦しみが少しだけわかった気がしました。

アーティストとリーダーには共通点があると感じたのがその理由です。

「アーティストは自分が作りたいものを作る。それが鑑賞者に認められるか否かは関係ない」ということを言われる方もいますが、私は違うと思うのです。

その作品が、鑑賞者から認められなければ、ただのモノであり、ただの情報にすぎません。アーティストは鑑賞者から認めてもらって、初めてアーティストたりえるのです。「アーティストであり続けるために、自分は次に何を作るのか」という、ものすごいプレッシャーをアーティストは背負っているのです。だからこそ、彼らは悩み続け、時には精神にまで異常をきたしたりするのでしょう。

リーダーの目的設定も、アーティストの作品テーマ決定も、創造という点で同じです。そして、創造という行為は、人に認めれてこそ初めて創造たりえる、という制約を受けています。リーダーの苦悩もアーティストも苦悩も、全てそこに集約されます。

我々が美術館へ行けば出会える、多くの人々に愛されるアート作品は、アーティストたちのこうした苦闘の末に生み出されています。

作品の裏に込められた、アーティストの苦闘の跡を読み取る訓練を重ねることは、リーダーとして成長してゆくための、ひとつのヒントたりえるのではないかと、最近、私は考えるようになりました。
スポンサーサイト

「目的」と「目標」を使い分けてみる

世界一シンプルな戦略の本

「目的」と「目標」、このふたつの言葉の区別を、私はこれまでフィーリングで判断していました。おそらく、多くの方がそうだと思います。

そんな私も管理職になってから、二つの言葉の使い分けに悩むようになりました。同時に、英語での会議の時、objective、target、goalといった単語を、きちんと使い分けないと、相手にメッセージが伝わらない、ということに気が付きました。

タリーズコーヒーの事業を日本で成功させた松田公太さんは「仕事は5年でやめなさい」という本で次のように述べておられます。

====================
一本の矢が目指す「的」、一生をかけて目指す場所、たどり着きたいと願う場所。それが「目的」なのです。(中略)
一方、目標は、思え描く場所を目指すために、ひとつひとつ通り過ぎる場所。いわば、「道標」です。(中略)
「目的」があって、そこに辿り着くための道しるべのひとつ、それが「目標」です。「目的」と「目標」、これらを明確に区別しなければなりません。(中略)
「目標」が「目的」にいたるための道標、手段である以上、まずは「目的」を明確にしなければなりません。私の「目的」は「食を通じて文化の架け橋になる」というものです。
====================
仕事は5年でやめなさい

松田さんのおっしゃることは、理解できます。しかし、松田さんがここでおっしゃる「目的」は、英語にすると「vision」に近いですよね。かなり壮大なイメージです。松田さんがタリーズの事業を成功させることができたのは、こうした揺ぎないヴィジョンを持っておられたことも、要因のひとつなのだと思います。

しかし、実業家でもない私のような一般ビジネスパーソンにとって、「目的」を「ヴィジョン」と考えるのは、荷が重いなあ、と思ったのです。もっと自分の身の丈に合った、消化できるレベルでの定義はないのだろうかと。

そんな中、前述の「世界一シンプルな戦略の本(長沢朋哉著)」を読んで、スッキリしたのです。

まず、基本は、「目的=定性的(数値で測れない)、目標=定量的(数値で測れる)」という分類があるということです。

この考えでいくと、英語の場合、目的はobjective、目標はtargetがピッタリきます。

長沢さんは、論をさらに進めて、次のように述べておられます。

====================
一個人の話で、「年収1000万円が目標です」は、まあ、”健全な上昇志向”の範疇でしょうが、「年収1000万円が目的です」となると、その人の”人間性”に疑問符がつく気がします(笑)。「お金だけが人生の目的なの?」という感じで。
この理由を考えてみたのですが、どうやら「目的」という語には、その人や組織の「価値観」が内在するように感じられるからだと思います。(中略)
「目標には数値が潜んでいて、目的には価値観が潜んでいる」。こんなことが言えるのかもしれません。
====================

これを読んでわかりました。

1)理念 (vision)
2)目的 (objective)
3)目標 (target)

この階層に沿って目指すところ、やるべきことを分解させていけば良いのだと。

「そんなこと、あたりまえじゃないか」とおっしゃる方もいるでしょうけれど、凡人の私は、ようやく、この仕組みが頭の中でクリアになったところです。

「世界一シンプルな戦略の本」を読んで

どうしてこうもビジネスパーソンは「戦略」という言葉が好きなのか。とにかく会議や書類では、「戦略」や「戦略的」といった言葉が驚くほど頻繁に出てきます。

これは日本人のみならず、欧米人も同じで、「わが社のストラテジーは、、、」とか「ストテジックな解決策は、、、」とか、好んで使われます。

これは何ででしょうか。「戦略」という言葉には呪術的な響きがあり、使う人は無意識に「私のインテリジェンスのレベルは高いのだ」ということを誇示したがっているのだと私はみています。すなわち自己顕示欲の強い人が好む傾向をみてとれます。

そして、この「戦略」連発人間は例外なく、「戦略」という言葉の定義が全くできていません。

これは、「戦略」というものを複雑にした経営学者さんたちにも責任があります。現代における戦略論の権威であるマイケル・ポーター教授は、戦略を次のように定義しています。

「戦略とは、企業の独自のポジションを定義して、それを伝えること。トレードオフをつくること。活動間の調和を生み出すことである」

何度か読み返しましたけれど、私には、さっぱり意味がわかりません。ワタミの渡邉社長はポーター教授の「競争の戦略」を経営のバイブルとしていて、この本は社員の必読書だとか。「戦略」の定義だけで、こんなにわかりにくい本、、、ワタミの社員の皆さん、お疲れさまです。

では、戦略の定義は何なのか。この問題について、もっともわかりやすく、皆さんにお勧めできるのが、「世界一シンプルな戦略の本(長沢朋哉著)」です。
戦略

長沢さんの戦略の定義、これは極めて明確です。

「戦略 = 目的 + 手段」

この定義から明らかなように、「目的が無い戦略は存在しない」のです。常に戦略を語るときは、目的と手段がセットになっていなければなりません。

しかし現実の世界では、会議や書類で「戦略」という言葉が使われるとき、「目的」が何なのか、全くわからないケースが多いです。

ひどいときには、目的はおろか、手段すら明確でないまま、意味もなく「戦略」という言葉が使われるケースも多々みうけられます。

こんな非生産的な会議に身を置かねばならぬとき、私は絶望的な気分になります。

そんなわけで、戦略の定義が曖昧な方に、ぜひこの本を読んでいただきたいです。

この本は、シンプルな言葉で、図も多く、すぐに読めます。それでいて、戦略の真髄を伝えてくれる、すばらしい本だと思います。

さらに申しますと、この本は第一章が「戦略的であるために」、第二章が「論理的であるために」となっており、第一章を読むだけでも、「目からウロコ」を感じる方は多いと思います。

さて、私自身がこの本で一番参考になったのは、「戦略の階層性」の話でした。

例えば、

階層1:売上高の20%UP
階層2:競合A社のユーザーを奪取すること
階層3:高感度を重視した宣伝の展開

というような階層があるとすると、「階層2は、階層1に対する手段であると同時に、階層3の目的でもある」ということです。

これは、いわれてみたら、あたりまえのことなんですけれど、私の中では「目からウロコ」でした。

日本の国会議員の皆さんに、この本を必読書として義務付けたら、日本の政治はもう少しまともになるんじゃないですかね。

ゴルゴ13のM16ライフルを実射して感じたこと

前項で特攻について書いている時、ベトナム戦争の舞台となったクチ・トンネルのことを思い出しました。

クチ・トンネルはホーチミンから北西70kmのところにあります。ここに行ったのは1998年だったと思います。出張の後、時間が空いたのを利用して行ってみました。

このトンネルは、北ベトナム側が、南ベトナム側(アメリカが支援)と戦うために作ったものです。

アカデミー賞を受賞した「プラトーン」では、このトンネルでの戦闘シーンのインパクトが強かったので覚えておられる方もいると思います(*ちなみに私は、プラトーンがアカデミー賞に相応しい作品とは思いません)。

実際に行ってみて、アメリカが北ベトナムに勝てなかった理由がよくわかりました。

トンネルは、プラトーンの映像よりも、はるかに小さいものでした。デブのアメリカ兵だと、途中で引っかかって動けなくなるはずです。
クチ トンネル

そして、この小さいトンネルが、めちゃくちゃ長いのです。全長200kmのネットワークだそうです。

暗くて狭いトンネルを、ガイドの案内のもと、かがんで進むのですが、途中で足腰が痛くなり、嫌になってきます。暗闇の極小迷路の中、米軍兵士でこのトンネルに侵入した者は途中で恐怖に震え上がったはずです。

トンネルの途中には、時々、大きなスペースがあります。そこには落とし穴が用意されていて、中には毒が塗られた竹槍が上を向いて置いてあり、落ちたら即死だったそうです。

大戦中、日本軍もトンネルに潜る作戦をとりますが、ベトナム軍と異なり、日本軍には食料の補給がありませんでした。しかし、その違いを差し引いて考えても、この穴倉でひたすら耐え忍んだベトナム兵の精神力は、尋常ならざるものです。

私はここに、中国から何千年も攻め続けられながら、独自の文化を守り続けたベトナム人の底力を見た気がしました。

さて、トンネル見学の後、クチでは、ライフルの実射を体験することができます。

生まれて初めて実弾射撃をしてみることにしました。

様々なライフルがある中、私はゴルゴ13が使う、M16を選びました。
M16ライフル

50mくらい先でしょうか、的をめがけて発射してみて、その威力にたまげました。肩が吹っ飛ぶかと思うくらいの強い反動があるのです。

もちろん、訓練を受ければ、その反動はほとんど見られないほどに収めることはできるでしょう。しかし、マンガで見るゴルゴ13のように、微動だにしない射撃をすることが、いかに困難なことかわかりました。

また、いかに的に当てることが難しいのかがわかりました。何度かやってみて、的の端に何発か当てることができましたけれど、ゴルゴ13のように、何百メートル先の標的に当てることなんて、想像もつきません。

息を止めていても、心臓の鼓動で身体は動きます。撃つ瞬間、手元で1ミリズレると、100メートル先では10センチもズレてしまうのです。

「経験して初めてわかることがある」、そのことをクチ・トンネル訪問で自分は学びました。

小型プロペラ機に乗ってみて、特攻を考えてみた

先日、出張で、地方の空港へ小型プロペラ機で行きました。着陸が近づいて、外の景色を見ていたとき 「飛行機の速度って、遅く感じるものだなあ」と思いました。

これは大型ジェット機に乗っていても同様に感じるわけですけれど、今回は小型プロペラ機に乗ってきたせいでしょう、突然、「このスピードの遅さは、太平洋戦争のときの、日本の特攻機のパイロットも同じように感じていたんだ!」という考えに至りました。

戦争末期、ろくな燃料もなく、重い爆弾抱えて、体当たり直前は低空ですから空気抵抗も大きく、速度はかなり遅かったでしょう。現代の旅客機が着陸するときのスピードと大差なかったはずです。

私は鹿児島の知覧に行ったことがあります。知覧は大戦中、特別攻撃隊の出撃基地でした。知覧の平和会館には、飛び立った若き兵士たちの遺書が多く残されており、涙を流さずにはいられません。

そんな知覧の経験もありますし、映像も観ていたので、自分の頭では特攻というものを、ある程度わかっているつもりだったのです。

しかし、よく考えてみると、その映像は全て米軍側が撮影したものでした。すなわち米軍側の視点で特攻を認識していたということです。

ビジュアルでの記憶はインパクトが強く、「自分はわかっている」と、思いがちなのですが、物事は逆方向から見ると全然違って見えることがありますよね。将棋盤をひっくり返して、敵側から見てみると、全然違った状況に感じるのと同じことです。

あらためて、この遅い飛行機で敵艦に体当たりする自分を想像してみました。

敵艦からの対空砲火がどれほど凄まじいものか、実戦フィルムをご覧になったことが無い方は理解しにくいと思うので添付します。
対空砲火

弾幕

まるで集中豪雨を中を走っているかの如きです。

それでも、守る米軍側からみれば、飛行機は速いし、百発百中で撃ち落せる保証は無いので、やっぱり怖いのです。

一方、日本軍のパイロットからみれば「こんな集中豪雨のような砲火の中、遅い飛行機では、どうあがいても、敵艦にたどり着けるわけがない」ということは明白だったでしょう。

自分が大戦時にパイロットだったとします。もし、特攻を命じられたら、「自分は明日、確実に死ぬ」ということになります。私は、その事は受け入れられると思うのです。

しかし、「敵艦にたどりつく前に撃ち落されることは確実」、すなわち「自分が”犬死”することは確実」という事は、受け入れられないはずです。

知覧から出撃されたパイロットの皆さんは、当然、「自分は敵を倒すこと無く犬死する」ということを理解したでしょう。それでも、皆さん、美しい文字で凜と澄み切った遺書を残されています。

今回、小型プロペラ機の着陸風景からふりかえってみて、特攻という愚かな作戦を遂行した旧日本軍への怒りが増すと同時に、パイロットの皆さんの精神レベルがどれだけ崇高なものだったのか、あらためて理解が進んだように思いました。

日仏文化の融合 ― ロディアNo.12&ピーフィット

前電でトンボ鉛筆から発売されているピーフィットというボールペンについてお伝えしました。

私はこのペンをお気に入りのロディアNo.12とセットにして使っています。
ロディアとピーフィット

このコンビネーション、我ながら、センス良くまとまっていると思います。

ピーフィットのクリップ部分が、ロディアの厚い表紙にガチッとはまり、安定感抜群です。デザイン的にも、美しいロディアの表紙に、ピーフィットのポップ感が良いかんじ。「日仏文化の融合」は言いすぎでしょうか。

このセットで、家の中の様々な場所に置いています。特にベッドの横に置いてあるセットは、寝ているときにふと、何か思い出したとき、暗い中でも記すことができる点で重宝しています。

出かけるときも、ロディアをシャツの胸ポケットに、ピーフィットをズボンのポケットに、それぞれ挟んでいます。そして、移動中、何か思い出したら忘れないうちにメモしておきます。

こうしてみると、私がメモ魔のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。本当に、「あっ、この発想、仕事で使えるかも」とか、「忘れていた、これ○○さんに伝えておかないと」みたいなことを、ちょっと書く程度です。

この、「ちょっと書く」がきっかけとなり、ロディアの効能なのか、次々と思考が進んでいくこともあります。

ところで、メモについての考えは、人それぞれですよね。

AKBをプロデュースした秋元 康さんは「メモは取らない」そうです。要は「メモに取らないと頭に残らないようなことは、忘れていいことである。メモを取らなくても頭に残ることが、自分にとって大切なこと」というポリシーとのこと。

これは逆の視点からみると、メモなんかとっていたら、追いつかないくらい、秋元さんは常に思考を続けているということだと思うのです。「何か面白いことはないかな」と、キョロキョロあたりをながめながら、思考を続けることが習慣化しているのでしょう。

秋元さんの仕事に対する考え方やライフスタイルには憧れますが(*AKBは興味持てないのですが)、そもそも、日々の生活でそんなに気づくほどアンテナが鋭くないので、私はメモの部分だけは真似できそうもありません。

iFデザイン賞のPFit(ピーフィット)は日本の誇り

トンボ鉛筆から発売されている、PFit(ピーフィット)というボールペンをご存知でしょうか。

定価で一本300円ちょっと、サイズは9センチ、重さは8グラムの小さいボールペンです。おもわず見過ごしてしまいますが、この小さなボールペンは、スゴイんです。日本文化が生み出した傑作のひとつと言ってもおかしくないほどです。

何がすごいのか。

携帯用のペンというコンセプトで世に出るペンは多いものの、普通はただサイズを小さくしただけ。ピーフィットは、小さいペンに不釣合いなほど大きなクリップにその特徴があります。クリップ・ペンと呼んでもよいほどです。

このクリップを使って、ペンをガッチリ固定できるように様々な工夫が施されています。

まず、クリップが1センチ近く開くということ。すなわち、最大1センチの厚みのものであれば、このペンを挟んでおくことができます。
PFit ガールズキュートカラー
次にクリップとして挟みこむ、ペン軸側の部分には樹脂加工がしてあること。添付の写真ですと、中央のターコイズのクリップが薄いピンクで、その下のペン軸のオレンジの部分が樹脂になっています。この樹脂により、クリップで留めても外れにくくなると同時に、ペンとして書くときに指がすべりにくくなっています。

そしてクリップとして挟みこむ部分に微妙なカーブがあることにより、留め効果を高めていること。写真の左のネイビーブルーの赤いクリップを見てください。ペン軸と接する部分が直線ではなく、微妙なカーブを描いていることがわかりますでしょうか。

こうした工夫で、ペンをシャツやズボンのポケット、ボード、壁掛けカレンダー、バッグなどに挟むことができるのです。

さらに、このクリップを開くと、ペン先が自動的に引っ込むようになっているのも、ありがたいところ。

うっかりものの私がよくやってしまうのは、シャツの胸ポケットにペンを挿す際、ペン先を出したままにして汚してしまうケース。これで何枚もワイシャツを捨てるはめになりました(嫁にずいぶん怒られました)。ピーフィットは構造上、こうした事故が起こらないようになっています。

サイズは、私のような手の大きい男性が、ギリギリ使えるレベルです。このサイズで決定するまで、どれだけテストが繰り返されたのでしょう。
PFit ピーフィット

こうした機能面のみならず、ピーフィットのすばらしいところは、その美しいデザインです。トンボ鉛筆の製品だからというわけではありませんが、私はそのフォルムから、どこかバッタをイメージしてしまいます。

ちなみに替え芯は、国際規格の4Cタイプ。トンボの芯も良いですが、三菱のジェットストリームなどに替えることも可能です。

添付写真に載せているピーフィットは、2013年に発売された「ガールズキュートカラー」という特別生産品です。どの色もかわいいです。我が家は大量に買いまして、家の中には、ロディアのメモ帳と同様、そこいら中にピーフィットが置いてあります。

なお、ピーフィットは、世界のデザイン界におけるオスカー賞といわれる、「iFデザイン賞」を2010年に受賞しています。

iFデザイン賞は、様々な分野があり、ピーフィットが受賞したのは「オフィス/ビジネス分野。2010年、この分野で受賞したのは20の製品でした。

ピーフィット以外で筆記具の分野では、ペリカンのDionや、LAMYのdialog3が受賞しています。

トンボ鉛筆はこれまで、iFデザイン賞を、12の製品で受賞しています。ひとつでも受賞するのは大変な章ですから、デザイン・カンパニーとして、トンボ鉛筆がいかに世界で高く評価されているか、ということです。日本人として誇りに思います。

私は、この名品を開発した方々に、その開発の苦労話をうかがいたいですね。

例えば、ネーミングも実によく考えられています。「フィットするペン」から来ているわけですが、「PFit」という文字からはシャープな印象と同時に、最後のitの二文字が小文字となることで、かわいらしさも含まれており、まさにこのペンのイメージがネーミングに投影されているといえます。世界で通用するコピーです。コピーライターの方は、どれだけ悩みにぬいてこれに辿りついたのでしょうか。

トンボ鉛筆には、将来、発売○○周年記念、みたいな形で、「PFitプラチナ」とか、「BIG PFit」とか、「世界の国旗シリーズ」とか、「厚さ2センチのものでも挟めるピーフィット」とか、面白い企画物を発売してほしいですね。

ピーフィットは機能・デザイン・価格、全てにおいてパーフェクトに近いです。この製品がLAMY2000のようなロングセラーになることを願ってやみません。

ひらがなの美醜を人が判断できるという謎

今年になって「もっとまともな字を書くようになりたいな」と欲がでて、ペン字学習の本を買い、それに沿って練習するようになりました。

教科書にしたペン字学習の本はよく売れている本でしたが、自分の好みではなかったためか、練習しているうちに「この字を自分は美しいとは感じないな」と気づきました。そこで、「美しい字っていったい何なのだろうか」と疑問を持ったのです。

そんな中、ネットを検索していて、NHKの「ためしてガッテン」で2008年に「さらば!クセ字&悪筆 1時間で美文字に変身、美文字上達法」という特集がされていたことを知りました。それによると、字の上達の最大のコツは「良い字のイメージを脳に定めること」だというのです。要は、人は自分が脳でイメージしている字を手で再現しているのだとか。ということは、良いお手本が無いかぎり、自分で満足する字は書けないということになります。

そこでまずは、ひらがなから、自分のお手本となる字を探してみました。

習字の先生方が書かれるひらがなを分析してみて到達した結論は、「ひらがなの字形に正解無し」ということでした。それぞれの先生によって、字の形はてんでバラバラなのです。つまるところ「私はこの先生のひらがなの形が好き」というモデルを決め、それを臨書して真似るしかないということになります。私の場合、ネットでいろいろ検索して、「あ」はどの形、「ね」はどの形とか、それぞれ自分のお手本を決めるようにしました。

次に漢字です。漢字は特に楷書において、ひらがなと比較して「基本モデル」が共通認識化されているといえます。現代において楷書のモデルとされるのは、初唐の三大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良)の作品といって過言ではないと思います。おそらく日本人の誰もが、三大家の作品をみると「美しい」と感じると思います。

三大家の字は似ています。しかし、それぞれ微妙に作風が異なり、私のイメージでは虞世南が柔、欧陽詢が剛、褚遂良がその中間というかんじです。その中で、私が一番惹かれるのは褚遂良です。

そこで、当面は褚遂良の作品を「自分にとっての美しい文字」の基準とすることにしました。下の写真が彼の代表作、雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)です。
雁塔聖教序

どの字も美しいですけれど、「清」とか「無」とかは、特にカッコいいなあ、と思います。

お手本を見ながら、万年筆で書いてみるのですが、名人の書は微妙なバランスでできており、真似するのは難しいです。「俺の字は褚遂良のレベルに達した」なんて思えることは生涯無いでしょうから、褚遂良を目標に字の練習を続ける趣味は生涯楽しめそうです。

ところで、漢字は手本が(日本のみならず漢字文化圏全体で)共通認識化されていているのに、なぜひらがなの手本はバラバラなのでしょうか? 私は、明治維新を迎えるまで日本の公式文書は漢文であったため、ひらがなが軽視されていたことがその理由だと想像しています。

長い間軽視されてきたひらがなですが、今や日本人が読み書きする文の多くはひらがなが占めています。ということは、ひらがなを上手に書けないと、「きれいな字を書きますね」と人からみなされないということです。それにもかかわらず、誰もが納得する、美しいひらがなの共通認識モデルがないという、このジレンマ。

しかし、その手本がバラバラなひらがなでも、人それぞれ「このひらがなはきれいだなあ」と感じるモデルがあるわけですよね。そのモデルはもちろん、活字の字体とは異なるものです。普段、見慣れている字でもないのに、「このひらがなはキレイで、これはキレイではない」と認識しています。そして、手本がバラバラであることからも明らかなように、ひらがなの美醜の基準にはそれぞれの人で大きく異なります。

いったい、人は何を基準に、ひらがなの美醜を決めているのでしょうか。

美人とかハンサムとかの基準は、この情報化時代、メディアを通じて「今年の女優の美人度ランキング」といったものが発表されることにより、共通認識化されているわけです。

ひらがなにはそれがありません。共通認識となる基準が無いのに(=手本がばらばらなのに)、人はどうやって、ひらがなの美醜を認識できるのか?

この謎、どこかの研究機関が明らかにしてくれたらいいのにな、と思います。

「アート」というコトバで日々の仕事を括ってみる

前電、「代々木ゼミナールでartというコトバを教わった」で、次の内容をお伝えしました。

「artという言葉には、大きく分けて『技』と『芸術・美術』という二つの意味があります。そして『芸術・美術』という意味をより明確にするときには『fine art』という言葉が使われています」

これを進めて、現代の日本語における「アート」と英語の「art」の関係をみてみましょう。

「アート」を職業とする「アーティスト」という言葉から考えてみます。

英語の「artist」は「芸術家・美術家」という意味の他に、「技」という意味から派生した「名人・達人」という意味もあります。

一方、日本語の「アーティスト」には「名人・達人」という意味は、ほとんどありません。

アイドル歌手が「私もアーティストとして、、、」なんていう使い方をしていることを考えると、アーティストというコトバは、かなり拡大解釈された「芸術家」という意味で使われていることがわかります。「(主に外観上の)美につながるものを作ることに携わっていると、自分もしくは他人が考える人」と言えるでしょう。

「アーティスト=芸術家」と厳密な意味でコトバを考えていると、「なんちゃってアーティスト」に対する不満・疑問が渦を巻くことになります。大野左紀子さんが書かれた「アーティスト症候群」という本は、こうした状況がよくわかる好著です。
アーティスト症候群

コトバは生き物であり、世間の共通認識で成り立つものですから、アーティストというコトバの氾濫は止められません。しかし、どうせ氾濫させるならば、英語のartistの意味する領域まで広げてしまったらよいのではないかと思うのです。

つまり、芸術家、美術家、名人、達人、全てをアーティストと呼ぶ、ということです。

「名人・達人」と言うとコトバが重いですが、もっと軽い意味で、技を駆使して仕事をする人々、全てをアーティストと呼んで良いのではないかと。

そうすると、デザイナー、職人、料理人といった職業においてはもちろん、教師、医者、研究者、政治家、社会福祉家、ビジネスパーソン、主婦といった全ての職業のおいて、技を駆使して良い仕事を見せてくれる人は、だれもがアーティスト。私の中では、アーティスト=プロフェッショナル、なのです。

アーティストがモノや情報を作り上げる技術がアートです。

「今の自分は仕事をしていて、”プロフェッショナル”とみられるのだろうか」と思うと、何か重いものがありますね。

それを「自分の仕事は”アート”になっているのだろうか」と考えれば、もっと軽くなりませんか。

「アート」という、ポップなコトバで日々の自分の仕事、他人の仕事をくくってみることで、新たな”気づき”が出てくるように思うのです。美術館に行かなくても、日々の仕事にアートが見られれば、もっと仕事は面白くなる可能性があるのではないでしょうか。

「香港の大学生、最大規模の授業ボイコット」を表現

香港の大学生、最大規模の授業ボイコット

「香港の大学生、最大規模の授業ボイコット」 という報道に写真が掲載されていました。これを見たとき、なにか、カッコいいものを感じました。

あらためて考えてみると、それは日本人には見られなくなった”パッション”が、写真を通じて感じられるからなのだとわかりました。

このパッションの持つ美しさを、自分なりに解釈できないだろうかと思って、写真を加工してみました。

加工をしながら、「もしかしたら、アンディ・ウォーホルが、マリリンエルビスを作ったとき、彼もこんな気持ちだったのかもしれないな」と思いました。

なんであれ、やってみて、初めて気づくことはあるものですね。

香港の学生さんたち、がんばって!
カレンダー
08 | 2014/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
340位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
哲学・思想
43位
アクセスランキングを見る>>
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。