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建築家が引く鉛筆の線とは

松家 仁之 火山のふもとで
Pen : Piloto - Kaede (F)
Ink : Pilot – Fuyushogun

大学のときからぼくは、製図には少なからず自信があった。しかし内田さんからステッドラーの使いかたをあらためて教えてもらうと、それまでのやりかたがいかに我流だったかに気づかされた。アルバイトをはじめたばかりのころ、一センチ幅のなかにニミリ間隔で線を引いてゆく練習をした。音符のない長い五線譜ができてゆく。ふつうの線、薄く細い線、濃い線、三種類の五線譜だ。内田さんに見てもらい、トレーシングペーパーに接する鉛筆の芯の角度と腕の動かしかたを調整する。それだけで線の太さや濃淡の差がきれいに整ってゆく。すべるように動く内田さんの手元を見ていても、どこにどう力を入れているのかわからない。ピンと張りつめたように引かれた光る線。軽く、堅く、やわらかい、誰にも似ていない音がする。
「線を引くとき、無意識に息をつめるでしょう。それがね、間違いのもとなんだ。誰もが陥りやすい勘違いでね」
鉛筆を指先で持ったまま、頼りない顔をしているぼくに向かって内田さんはそう言った。
「息をつめたとたん、筋肉はかたく緊張する。ゆっくり息を吐くと、筋肉の力は抜けてゆく。深呼吸するとリラックスするっていうのは、そういうことなんだ。だからゆっくり力まずに息をしながら線を引いたほうが、腕の状態が安定する」

松家 仁之 : 火山のふもとで  

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夏の間は公私にわたり忙しく、冷夏だったとはいえ、暑さもあってヘトヘト。文を書くエネルギーも湧かず、ブログもすっかりご無沙汰してしまいました。

さて、涼しくなり本を手にとる元気も出てきたこともあり、さっそく 「積ん読」 から取り上げたのがこちら。
火山のふもとで

この本を知ることになったきっかけは、私が家を建てるときはこの方にお願いしたいと密に思っている建築家、関本竜太さんのブログを通じてでした。

本書は建築設計事務所を舞台にした小説です。登場人物の中には、故吉村順三氏と
吉村順三

中村好文さんの
中村好文

イメージそっくりの方が出てきます。

中村好文さんがモデルになったと思われる 「内田さん」 は主人公の教育係でありまして、その輪郭が次のように描かれています。

「(事務所の中で) 三十代半ばの内田さんが一目置かれているとすれば、それはディテールのセンスだろう。間接照明の目隠しや引き戸のおさまり、テーブル、椅子、キャビネット、ベッドなどの家具のデザイン、暖炉のレンガの積みかた、浴室のタイルと檜張りのコンビネーションなど、手に触れたり、目にとまったりする仕上がりに、独特の繊細な工夫があった」

まさに著者が中村さんを脳裏に思い浮かべて書いたとしか思えない文になっています。

この本に出会えてよかったのは、我々が窺い知ることのできない、建築設計事務所の日常を垣間見ることができたことです。

例えば朝の風景。

「九時になると、ほぼ全員が自分の席について、ナイフを手に鉛筆を削りはじめる。鉛筆はステッドラー・ルモグラフの2H。Hや3Hの人もいた。(中略) 鉛筆を削る音で一日がはじまるのは、北青山でも夏の家でも同じだった。はじめてみると、たしかにこれは朝いちばんの作業にふさわしい気がしてくる。コーヒーを淹れる香りのように、鉛筆を削る匂いで、まだどこかぼんやりしている頭の芯が目覚めてゆく。カリカリカリ、サリサリサリという音で、耳の神経にもスイッチが入る」

著者の松家仁之さんは、綿密に取材したのでしょうから、おそらく当時の吉村順三設計事務所の朝の風景はこんなかんじだったのでしょうね。

この朝の風景、あこがれちゃいます。人間らしいぬくもりが音や匂いから感じられます。今はパソコンにスイッチいれて、キーボードのカタカタカタ、という音だけ。味気無い時代になりました。

きっと当時の建築家やデザイナーは、“鉛筆を削る” という毎朝の儀式を通じて、心と身体の感覚を鋭利に研ぎ澄ましていったのでしょう。芯の先端に意識が集中しますから、精神統一に最適です。私が会社経営者になったら、朝は朝礼したりせず、「全員で鉛筆削りを5分間やろう」 なんて言い出しそうです。(余談ですが、進学校の豊島岡女学園は毎朝5分間、「運針」 という手縫いの作業を生徒にさせるそうです。鉛筆削り同様、これで勉強モードにスイッチが入るのでしょうね)

それにしても、線引きに使われていたのが、ステッドラーのルモグラフ (鉛筆) だったとは驚き!
ステッドラー ルモグラフ

建築家はマルステクニコ芯ホルダー780Cがお好きなのだと思っていました。
マルステクニコ780c

私は仕事でこの芯ホルダーに4Bの芯を入れてよく使っています。チームのメンバーに自分のイメージをサッと書いて示したりするときに便利。

建築家は薄くて硬い芯が好きです。ステッドラーはもととも硬めなので、3Hといったら、ユニだと5Hくらいに相当するのでは。5Hなんて、一般人には縁の無い世界。

さて、プロがそのステッドラー、ルモグラフをどう使うのか。それについて記されたのがトップに揚げたところです。

我々が鉛筆で書くときは全然意識をすることすらない、濃淡や太さ、というものにまで神経を研ぎ澄ませて一本一本の線を書いてゆく。それがこの時代の建築家の姿でした。

現代の建築家は、鉛筆で線を書くのでしょうか。おそらくパソコンで描く作業が中心でしょう。自分で芯を削り、線ひとつ書くにしても呼吸まで意識して濃淡や太さを表現していた時代の建築家より、仕事は早く正確になったかもしれない。しかし、本当に優れた建築は生まれにくい環境になっているのかもしれません。なぜなら、建築はつまるところ、人間の身体感覚と密接に結びついているわけで、鉛筆を使わなくなった建築家は、その肝心の身体感覚が劣化している可能性が高いからです。

自分が家を建てようと思って建築家を決めるときには、その建築家の事務所を訪問し、スタッフが鉛筆で線を引いているか否か、そこに注目するのがコツかもしれません。そして、これまで制作してきた作品の図面を見せてもらうこと。手書きの図面の線が美しく手書きで描かれているか否か、そこをよ~く見たら、腕のほどがわかるのではないでしょうか。
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”コンビニ人間” を読んで

村上龍 芥川賞 選評

Pen : Piloto - Justas
Ink : Pilot – Kirisame

今に限らず、現実は、常に、見えにくい。複雑に絡み合っているが、それはバラバラになったジグソーパズルのように脈絡がなく、本質的なものを抽出するのは、どんな時代でも至難の業だ。作者は、「コンビニ」 という、どこにでも存在して、誰もが知っている場所で生きる人々を厳密に模写することに挑戦し、勝利した。

村上 龍 : 芥川賞選評

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第155回、平成28年上半期の芥川賞は村田沙耶香の 「コンビニ人間」 が受賞。文藝春秋、2016年9月号にこの作品が掲載されました。

コンビニ人間

芥川賞の作品なんて、私はこれまでほとんど読んだこともありませんし、普通は興味すら持ちません。しかし、今回は 「コンビニ人間」 という題名に魅かれて文藝春秋を買い、読んでみたのです (ずっと「積ん読」状態だったものを、最近、ようやく手にとった次第)。

読んでみた結果、予想どおり、、、というべきか、作者には申しわけないですけれど、作品のストーリーそのものに感銘を受けることはありませんでした。しかし、コンビニ店員の仕事を極めた人間が到達する、研ぎ澄まされた感覚の記述には、優れた絵画作品を見ている時の感覚と似たものがありました。例えば次の部分です。

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店内に散らばっている無数の音たちから情報を拾いながら、私の身体は納品されたばかりのおにぎりを並べている。(中略)
チャリ、という微かな小銭の音に反応して振り向き、レジのほうへと視線をやる。掌やポケットの中で小銭を鳴らしている人は、煙草か新聞をさっと買って帰ろうとしている人が多いので、お金の音には敏感だ。案の定、缶コーヒーを片手に持ち、もう片方の手をポケットに突っ込んだままレジに近付いている男性がいた。素早く店内を移動してレジカウンターの中に身体をすべりこませ、客を待たせないように中に入って待機する。
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小銭の音

様々な音が飛び交う店内において発せられるかすかな小銭の音。それに対して 「煙草か新聞!」 と、肉体&思考が条件反射してしまうコンビニ店員。

長年コンビニで働いた経験を持つ方の中で、その技を極めた方は、おそらくこのような境地に達するのでしょう。

しかし、無意識に反応できる店員さんは多くいても、それを言語化することに成功した人は、著者の村田さんをおいて他にいません。そこに芸術としての価値があると私は思うのです。

私が嬉しかったのは、芥川賞選考員会の皆さんの選評の中で、村上 龍さんの評価のポイントが、まさに私と同じ点にあったことです。「天才、村上 龍と自分は同じセンスを持っているのだ」 と思えるだけで感無量でした。

以前、「村上 龍も苦しむ“サッカーを表現する”ということ」 という稿でお伝えしましたが、名人の域に達した方のとる、一瞬の行動や判断、あるいは作品の中には、ものすごい情報が詰まっています。

逆に言うならば、“その一瞬” に、膨大な情報を詰め込むことができる人を “プロフェッショナル” と言うのかもしれません。

村田沙耶香さんが著したとおり、コンビニという世界にもプロフェッショナルは存在します。それならば、我々が日々接する方の中にも、“その一瞬” を魅せてくれるプロフェッショナルは数多く存在しているはず。けれども、実際には、なかなかそうした方を見出すことはできません。それは私の感性レベルが低いからなのでしょう。

優れた芸術作品に共感を覚えるためには自分の感性を高めなければならないのと同様に、自分の身の周りの方の “その一瞬” に気付くためには、高レベルの感性が必要です。

芸術を学ぶことが大切である理由は、そんなところにあるのかもしない、と思ったのでした。

昔の英語には主語が無かった

渡部昇一 歴史の読み方

Pen : PeliKan - M400 (F)
Ink : Pilot – Konpeki

日本語はあまり主語を使わないなどといわれるが、英語にしろ、元来、小部族で存在していたころは、主語などめったに使わなかった。英語には必ず主語があるが、日本語には主語がなくてもよいなどというのは、英語の歴史を知らない人だけが言うことである。
しかし、英語にしても、しだいに英語圏が広くなると、主語をはっきり整理しなければならなくなる。日本語の場合は、あくまでも家族用語のようなものだから、家族の中で主語から述語までをはっきり言っていたのでは、むしろ不自然に聞こえる。

渡部 昇一 : 歴史の読み方
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渡部昇一 画像
2017年4月16日、偉大なる知の巨匠、上智大学名誉教授の渡部 昇一先生が永眠されました。ご冥福をお祈りします。

渡部先生は1974年に出版された 「ドイツ参謀本部」、1976年 「知的生活の方法」 といったベストセラーをきっかけに、様々な分野における本を意欲的に書かれた方でした。

ドイツ参謀本部

知的生活の方法 渡部昇一

ウィキペディアによると、蔵書は14万冊を超えるとのこと。1日に1冊の本を読んでも384年かかる量ですから、常人には及びもつかない世界です。
渡部昇一 蔵書

そんな渡部先生の本を読み返していて、目に止まった箇所がありました。上述の 「英語にしろ、元来、小部族で存在していたころは、主語などめったに使わなかった」 という部分です。先生の専門は英語学ですから、この言葉に誤りはないでしょう。

現代の英語から考えると、「主語の無い英語」 というのは想像もつきませんね。

しかし、言語の発達過程をイメージしてみると、同一言語を用いるコミュニティが狭ければ狭いほど、少ない言葉で十分なコミュニケ―ションが成立するということは理解できます。

たとえば、旦那さんが離れたところから 「おーい」 とひとこと奥さんに声をかけたら、その声のト―ンで、「あっ、お茶を持ってきてくれ、っていうことね」 と奥さんは推測できる、なんてケースがそれに相当します (*我が家でもこんな以心伝心の夫婦関係になればと憧れます)。太古の世界における人のコミュニケーションは、ほとんどがそんなベルだったのではないでしょうか。

したがって、どの言語においても、言葉が生まれた当初、主語は不要だったと考えるのが自然です。

やがて、民族間の接触が増え、社会が複雑化するとともに、多くの言語において主語は必要なものになってゆきました。

こうした社会変化は世界に広まり、ついには主語を必要とする現代英語に落ち着いたわけです。

日本においても同様に、社会の変化が起こりました。しかし、日本語においては依然として主語は曖昧なままです。なぜなのでしょうか。

林 望先生は、「文章の品格」 という本の中で、日本語の主語について次のような言葉を残されています。

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日本語には二人称が無い、ということをご存知でしょうか。いや、そんなことはないよ、「あなた・きみ・そなた・おまえ」 いろいろあるじゃないか、と反論が聞こえそうです。
しかし、じつはこれらの 「一見二人称に見える言葉」 は、語源的に見れば、それぞれ 「あちらにいる人、たいせつな方、そっちの方にいる人、目の前にいる人」 とでも言うべき言葉で、英語のyouのように、それ自体がニ人称の代名詞として存在していた言葉ではありません。
じつは日本では古来、相手の名前を打ち付けに呼ぶのは非常に無礼なことだと考えられてきました。それは名前にはその人の魂が宿っているからで、そういう大切なものを安易に口にするのは、相手の生命を脅かすものだとさえ思われていたのです。
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林 望  文章の品格

現代に生きる我々にとって、「名前にはその人の魂が宿っているからで、そういう大切なものを安易に口にするのは、相手の生命を脅かすものだとさえ思われていた」 なんていう意識は全く無いと言ってよいでしょう。しかし私は、依然として日本人の潜在意識の中に、そういう考え方が眠っているのではないかと思うのです。このため、「相手の名前を打ち付けに呼ぶのは非常に無礼なこと」 という認識が今も続いているのではないでしょうか。

話は元に戻りますが、では、日本語は、主語の使用を控えめにしたまま、どうやって社会の複雑化に対応していったのでしょうか。

その答えは、世界屈指の、高度に発達した敬語システムにあります。敬語があるから、主語を省いても、文脈により、それが誰を指しているかを察することができるわけですね。
keigo

日本人は子供の頃から主語を使わない会話の環境に慣れているので不自然には感じませんけれども、主語を使わずに敬語を使って微妙な距離感を演出するというのは、世界でも稀にみる高度な技能なのです。

日本人の持つ繊細な感覚は、世界の中でも突出していると私は考えていますが、日本人がそのような特徴を持つに至った理由のひとつとして、敬語を持つ日本語の特殊性があげられるでしょう。

これからの時代、海外の人々は、ますます繊細な日本文化へ注目してゆくはずです。しかし、どれほど海外が日本を模倣しようとも、日本文化の強さの源泉が、日本語という言語に根差したものである以上、決して追いつかれることはないのです。

「日本人の自己主張が足りないのは、日本語は主語が曖昧だから」 とか、「日本人はYes、Noがはっきりしない」 なんていう論調を目にすることがありますが、そんなことは全然、気にしなくてよいと思います。それが日本語の特徴であり、日本人の特徴なんですから。

日本人は高度な日本語を操るからこそ、オリジナリティ溢れる日本文化を築くことができ、また、今後も世界の中で高い競争力を保ってゆくことができるのです。

逆に言うならば、日本文化と日本語は深く結びついているがゆえに、「日本文化を学びたい」 と希望する外国人は、日本語を習得しなければ、文化の真髄には近づけないということになりましょう。

AIが急速な進化を続ける中、超高度の自動翻訳機が誕生するのは時間の問題。

日本が世界の競争の中で勝ち残っていくための鍵は日本文化を磨くことにあり、だからこそ、未来の日本を担う子供たちの日本語力を高めることが、国力強化に向けて最短の道であると私は信じています。小学校で、お遊び程度の英語の授業に時間を費やす余裕はありません。

羊羹とカマンベールの奇妙な組み合わせ

羊羹とカマンベールチーズ1

欧米路線など、長距離路線のビジネスクラスに乗ると、食後のオプションとして、デザートかチーズを選択することができます (下の写真)。ちなみに、「デザートかチーズ」 と記しましたが、欲張って両方を取っても文句言われたことはありません。

ビジネスクラスのチーズプレート

このチーズプレートには、だいたいアプリコットなどのドライフルーツ、もしくはジャムが付きます。食べてみると、チーズとドライフルーツって、相性が良いんですよね。チーズの塩味と甘味が混じり合い、チーズの良さが引き立つ感じがします。

そんな記憶がかすかに残っていたからでしょう。冷蔵庫の奥底に、賞味期限がはるか前に切れていた虎屋の羊羹を目にしたとき、買い置きしておいたカマンベールチーズと合わせることを思いつきました。

そもそも、羊羹って、最近は昔に比べると甘さ控えめになったとはいえ、それでも甘い! 我が家ではなかなか消費が進まない存在です。

「羊羹の甘味とチーズの塩味はきっと合うはず」 と信じ、上の写真のようにスライスしてみました。

食べてみると、カマンベールの少しクセのある香りとコクが、羊羹の甘味と調和して、各々の素材の旨みが際立つのがわかりました。私は、ジョエル・ロブションがこのデザート食べたら、「トレビアン!」 と言ってくれると確信しています。

羊羹とカマンベールチーズ2

スライスのやり方をこのように変えるのも一興かと。

ちなみに、今回はカマンベールチーズを使いましたが、他のチーズでも楽しめると思います。けれども、コクのあるカマンベールがベストコンビネーションでしょう。これに合うお酒は、ウイスキーのオンザロック、もしくはコニャックかな。

あるいはこれからの季節、よく冷やした水ようかんに、マスカルポーネチーズを添えるコンビネーションも映えそうです。この場合は、ビッシリ冷えたシャンパンがお似合いだと思います。

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<追記>
この羊羹とカマンベールのサンドイッチを、天ぷら、もしくは衣をつけてフライしたら、チーズが溶けて、これまた別次元のデザートに変身するかもしれません。揚げ物をめったにやらない我が家では、なかなか実現しそうもありませんが。。。

情熱とPassionの違いから、、、

情熱を持って生きる
Pen : Platinum - sai (M)
Ink : Pilot - Kirisame

パリに暮らしたあの日々から、素直に暮らすための秘訣をたくさん学んだけれど、なかでも私にとって一番大きかったのは 「情熱的に生きる」 ことを学んだことだった。
あなたさえその気になれば、日々のささやかなできごとが特別になる。すべてはあなた次第なのだ。笑いや友情、アート、知的な探求、そして喜びにあふれるとき、人生は素晴らしいものになる。毎日いろいろなことに感動しよう。(略)
パリに住んでいたとき、わたしの生活はすみずみまで情熱にあふれていた。わたしは人生が与えてくれる喜びを、思う存分に味わおうとしていた。わたくしはほんの小さなことにも大きな喜びを感じた。 - マダム・シックのおいしい夕食を味わったあとにショパンのレコードを聴いたり、マダム・ボヘミアンヌ特製の小麦粉を使わないチョコレートケーキに舌鼓を打ったり、チェイルリー公園でひなたぼっこをしながら、一遍の素晴らしい詞を読んだり・・・わたしのパリでの生活は、最高に満ち足りていた。どんなひとときも、わたしには愛おしかった。

フランス人は服を10着しか持たない (Capter16:情熱を持って生きる
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前稿に続き、「フランス人は10着しか服を持たない」 の一文を揚げています。

この文章を目にしたとき、私は妙な気がしました。例えば次の箇所です。

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「わたくしはほんの小さなことにも大きな喜びを感じた。 - マダム・シックのおいしい夕食を味わったあとにショパンのレコードを聴いたり、マダム・ボヘミアンヌ特製の小麦粉を使わないチョコレートケーキに舌鼓を打ったり、チェイルリー公園でひなたぼっこをしながら、一遍の素晴らしい詞を読んだり」
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ショパン

チェイルリー公園でひなたぼっこ

このような小さなことに喜びを感じることは、「情熱にあふれる」 ことなのでしょうか? 少なくとも、日本人の感覚からすると、これらは 「情熱」 という言葉からは縁遠いと言えませんか?

そこで私は、翻訳ミスにより、「情熱」 という日本語が使われたのだと考え、この部分が英語版でどのように記載されていたかを調べてみました。

すると、章題である 「情熱を持って生きる」 の部分は、「Live a Passionate Life」 と記されていたのです。Passion = 情熱、ですから、これはまさに直訳。誤訳でもなんでもないことがわかりました。

本書の翻訳をされた神崎 朗子さんも、この部分の訳は悩まれたと思います。おそらく神崎さんは、「日本人の感覚からすると、『情熱』 という訳はそぐわないのだけれど、他に適当な訳語もないので、ここは原文どおりに訳そう」 と判断されたのでしょう。

それにしても、私にとって驚きだったのは、欧米人 (著者はアメリカ人) が、このようなケースで 「Passion (情熱)」 という言葉を用いるということでした。

日々の些細な出来事に喜びを感じるようになるためには、鋭敏な感覚が必要です。それは精神面の成熟とともに人間の内面に育まれてゆくものであり、この点において、日本人も欧米人も変わりはないはずです。

ただ今回、上述の一文を読んで、そうした鋭敏な感覚を得るようになるまでのプロセスにおいて、日本人と欧米人との間には大きな違いがあるのではないかと感じるに至りました。

日本人は経験を積むとともに、「感覚を研ぎ澄ましてゆく」 という方向に進むと思うのです。つまり、余分な感覚を捨て去る中から、鋭敏な感覚、すなわち、本質が浮かび上がってくる、ということです。

これに対して、欧米人はPassionという言葉を用いることからもわかるとおり、積極的に、自らが持つ全ての感覚のうち、鋭敏な感覚はどれなのかと、探し求めていくのではないでしょうか。passionante life

すなわち、欧米人にとっての 「Passion」 という言葉と、日本人にとっての 「情熱」 という言葉との間には大きな隔たりがあるため、今回の例のように、翻訳で違和感の残るケースが生じるのです。

さらにいうならば、今回の、「Passionと情熱」 のようなケースはほんの一例にすぎず、全ての単語において、日本語と英語の間には多かれ少なかれ同様の溝が生じています。

ということは、どれほど英語が上達しようとも、英語を用いて外国人と完璧なコミュニケーションをとることはできない、ということになります。

また、さらにその先を言うならば、「情熱」 という日本語の単語ひとつとっても、Aさんにとっての 「情熱」 と、Bさんにとっての 「情熱」 が、完全に同じ意味を成すことは無く、必ずなんらかの祖語が生じています。

日本人同士ですら、日本語を用いて完璧なコミュニケーションをとることはできないのです。

言語とは、その本質において、かくも不自由なものですから、それをどれほど上手にあやつろうとも、この世において、自分の意思を完全に理解してくれる人は存在しない、ということになります。

この世はなんと孤独に満ちているのでしょう。

人はこの世に生を受けた瞬間から、あの世へ旅立つまで、生涯孤独。
人は孤独な存在

私は、この、絶望的な現実をしっかり受けとめることが、人として自立するうえで、大切なことだと考えています。

我々が抱える悩みの多くは、「人は自分を理解しくれない」、「人は自分を認めてくれない」 というところから発しているのではないでしょうか。

しかし、「人は自分を理解してくれないもの。人は誰もが孤独な存在」 という前提からスタートすれば、悩みは存在しなくなります。

一方で、たとえ人間関係の悩みから解放されたとしても、人は人間関係を断ち切ることはできません。人は孤独な存在であるにもかかわらず、孤独では生きてゆけない、という矛盾を抱えているからです。

だからこそ、「人は孤独な存在である」 ということを受け入れて初めて、「人を愛すること」 が大切だと、気付けるのではないでしょうか。

無償の愛

見返りを求めない無償の愛。言葉も通じぬ赤子に対して親が抱くその気持ちに、人が人として生きていくうえでの本質が在るのでしょう。
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