情熱とPassionの違いから、、、

情熱を持って生きる
Pen : Platinum - sai (M)
Ink : Pilot - Kirisame

パリに暮らしたあの日々から、素直に暮らすための秘訣をたくさん学んだけれど、なかでも私にとって一番大きかったのは 「情熱的に生きる」 ことを学んだことだった。
あなたさえその気になれば、日々のささやかなできごとが特別になる。すべてはあなた次第なのだ。笑いや友情、アート、知的な探求、そして喜びにあふれるとき、人生は素晴らしいものになる。毎日いろいろなことに感動しよう。(略)
パリに住んでいたとき、わたしの生活はすみずみまで情熱にあふれていた。わたしは人生が与えてくれる喜びを、思う存分に味わおうとしていた。わたくしはほんの小さなことにも大きな喜びを感じた。 - マダム・シックのおいしい夕食を味わったあとにショパンのレコードを聴いたり、マダム・ボヘミアンヌ特製の小麦粉を使わないチョコレートケーキに舌鼓を打ったり、チェイルリー公園でひなたぼっこをしながら、一遍の素晴らしい詞を読んだり・・・わたしのパリでの生活は、最高に満ち足りていた。どんなひとときも、わたしには愛おしかった。

フランス人は服を10着しか持たない (Capter16:情熱を持って生きる
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前稿に続き、「フランス人は10着しか服を持たない」 の一文を揚げています。

この文章を目にしたとき、私は妙な気がしました。例えば次の箇所です。

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「わたくしはほんの小さなことにも大きな喜びを感じた。 - マダム・シックのおいしい夕食を味わったあとにショパンのレコードを聴いたり、マダム・ボヘミアンヌ特製の小麦粉を使わないチョコレートケーキに舌鼓を打ったり、チェイルリー公園でひなたぼっこをしながら、一遍の素晴らしい詞を読んだり」
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ショパン

チェイルリー公園でひなたぼっこ

このような小さなことに喜びを感じることは、「情熱にあふれる」 ことなのでしょうか? 少なくとも、日本人の感覚からすると、これらは 「情熱」 という言葉からは縁遠いと言えませんか?

そこで私は、翻訳ミスにより、「情熱」 という日本語が使われたのだと考え、この部分が英語版でどのように記載されていたかを調べてみました。

すると、章題である 「情熱を持って生きる」 の部分は、「Live a Passionate Life」 と記されていたのです。Passion = 情熱、ですから、これはまさに直訳。誤訳でもなんでもないことがわかりました。

本書の翻訳をされた神崎 朗子さんも、この部分の訳は悩まれたと思います。おそらく神崎さんは、「日本人の感覚からすると、『情熱』 という訳はそぐわないのだけれど、他に適当な訳語もないので、ここは原文どおりに訳そう」 と判断されたのでしょう。

それにしても、私にとって驚きだったのは、欧米人 (著者はアメリカ人) が、このようなケースで 「Passion (情熱)」 という言葉を用いるということでした。

日々の些細な出来事に喜びを感じるようになるためには、鋭敏な感覚が必要です。それは精神面の成熟とともに人間の内面に育まれてゆくものであり、この点において、日本人も欧米人も変わりはないはずです。

ただ今回、上述の一文を読んで、そうした鋭敏な感覚を得るようになるまでのプロセスにおいて、日本人と欧米人との間には大きな違いがあるのではないかと感じるに至りました。

日本人は経験を積むとともに、「感覚を研ぎ澄ましてゆく」 という方向に進むと思うのです。つまり、余分な感覚を捨て去る中から、鋭敏な感覚、すなわち、本質が浮かび上がってくる、ということです。

これに対して、欧米人はPassionという言葉を用いることからもわかるとおり、積極的に、自らが持つ全ての感覚のうち、鋭敏な感覚はどれなのかと、探し求めていくのではないでしょうか。passionante life

すなわち、欧米人にとっての 「Passion」 という言葉と、日本人にとっての 「情熱」 という言葉との間には大きな隔たりがあるため、今回の例のように、翻訳で違和感の残るケースが生じるのです。

さらにいうならば、今回の、「Passionと情熱」 のようなケースはほんの一例にすぎず、全ての単語において、日本語と英語の間には多かれ少なかれ同様の溝が生じています。

ということは、どれほど英語が上達しようとも、英語を用いて外国人と完璧なコミュニケーションをとることはできない、ということになります。

また、さらにその先を言うならば、「情熱」 という日本語の単語ひとつとっても、Aさんにとっての 「情熱」 と、Bさんにとっての 「情熱」 が、完全に同じ意味を成すことは無く、必ずなんらかの祖語が生じています。

日本人同士ですら、日本語を用いて完璧なコミュニケーションをとることはできないのです。

言語とは、その本質において、かくも不自由なものですから、それをどれほど上手にあやつろうとも、この世において、自分の意思を完全に理解してくれる人は存在しない、ということになります。

この世はなんと孤独に満ちているのでしょう。

人はこの世に生を受けた瞬間から、あの世へ旅立つまで、生涯孤独。
人は孤独な存在

私は、この、絶望的な現実をしっかり受けとめることが、人として自立するうえで、大切なことだと考えています。

我々が抱える悩みの多くは、「人は自分を理解しくれない」、「人は自分を認めてくれない」 というところから発しているのではないでしょうか。

しかし、「人は自分を理解してくれないもの。人は誰もが孤独な存在」 という前提からスタートすれば、悩みは存在しなくなります。

一方で、たとえ人間関係の悩みから解放されたとしても、人は人間関係を断ち切ることはできません。人は孤独な存在であるにもかかわらず、孤独では生きてゆけない、という矛盾を抱えているからです。

だからこそ、「人は孤独な存在である」 ということを受け入れて初めて、「人を愛すること」 が大切だと、気付けるのではないでしょうか。

無償の愛

見返りを求めない無償の愛。言葉も通じぬ赤子に対して親が抱くその気持ちに、人が人として生きていくうえでの本質が在るのでしょう。

フランス人は10着しか服を持たないのか?

フランス人は10着しか服を持たないのか
Pen : Pilot - Custom Heritage 912 (WA nib)
Ink : Herbin - Vert Reseda

シックなデザイン、シックなおしゃれ。「上品で洗練された」 という意味を持つフランス語のシックという言葉は、日本ではそんなふうに使われている。けれども本書を読んでいると、シックという言葉の持つ深い意味がわかってくる・・・・シックというのは人や物の外見だけでなく、ライフスタイルや生き方、暮らし方、心の持ち方までも表す言葉なのだ。
アメリカ人の著者ジェニファー・L・スコットが、南カリフォルニア大学在学中にフランスへ留学し、パリの暮らしで学んだ価値観を一言で表す言葉が「シック」だ。マダム・シックをはじめ、パリのシックな女性たちは自分をよく知っていて、装いにも食事にもインテリアにもこだわりを持っている。大事なことにはお金をかけるが、ムダを嫌い、見栄を張らない。本当に気に入ったものだけを長く使う。シンプルな暮らし。それは次々と新しい物を求めて大量に消費する、アメリカのライフスタイルとは正反対だった。ジェニファーはみずみずしい感性と優れた知性で新しい価値観を吸収し、殻を破って、女性として花開く。

フランス人は服を10着しか持たない -訳者あとがき :神崎 朗子
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昨年、フランスへ旅行してみて、すっかりその魅力の虜になってしまった私は、「フランス人は10着しか服を持たない」 という本を買ってしまいました。

フランス人は10着しか服を持たない

読んでみてわかりましたが、服について記載されているのは本書の一部にすぎません。この本は、パリの上流家庭にホームステイしたアメリカ人の著者が実際に見聞きした、フランス人のライフスタイル全般について語ったものです。

このため、「フランス人は10着しか服を持たない」 という書名には違和感があるのです。原題は 「シック夫人からのレッスン(Lessons from Madame Chic)」 となっています。

Lessons from Madame Chic

ただ、日本で本を販売する出版社の立場で考えた場合、「シック夫人からのレッスン」 では、読者に見向きもされないでしょう。おそらく、訳者と出版社は、どういう題名にしたらよいか懸命に考え抜いたうえで、「フランス人は10着しか服を持たない」 という書名に辿り着いたはず。ベストセラーにすることができたのは、マーケティングの勝利と言えるでしょうね。

さて、原題にある 「シック夫人(Madame Chic)」 というのは仮名にすぎません。

上述のとおり、アメリカ人の著者が、フランス人のライフスタイルを 「シック」 であると感じ、それをホームステイ先の婦人の名前に当てはめたのです。原題の 「Lessons from Madame Chic」 には、著者のそうした想いが込められているのでした。

前置きはさておきまして、今回、お伝えしたいのは、「シック」 と 「エレガント」 の違いです。

この二つの言葉は似ています。何が違うのでしょうか?

実は先日、フランス人と話す機会があり、この違いについて聞いてみたのです。

すると、この二つの言葉は似ているけれども、シックはよりモダンでカッコいいイメージ、またファッションに対して使うイメージとのこと。

例えば、流行のファッションに身を包んだ女性に対して、男性は 「エレガントですねぇ!」 と言うよりも、「シックですねぇ!」 と言った方がピッタリくるわけです。

それに対して、エレガントは、ファッションのみならず、生活スタイルや人格など、より広い意味で使われるそうです。別な言葉に置き換えるならば、「良いセンス」 ということになるでしょう。

さて、ここでもう一度、上述の訳者のあとがきを振り返ってみましょう。

「シックというのは人や物の外見だけでなく、ライフスタイルや生き方、暮らし方、心の持ち方までも表す言葉なのだ」 とあります。

ここでいう 「シック」 は、本当のところ、「エレガント」 に置き換えるべきなんですよね。つまり、本書のエッセンスを述べるとすれば、「フランス人のライフスタイルは (シックというよりはむしろ) エレガントである」 ということになります。

となると、原題は 「Lessons from Madame Elegant」 とするのが本来あるべき姿でしょう。

しかし、アメリカ人の目からみて、「Madame Elegant (エレガント夫人)」 という書名はどう響くのでしょう? 私はアメリカ人ではないので正確なところはわかりかねますが、おそらくピンと響かないと思います。「エレガント」 はよく使われる言葉であるため、あきらかにウソの名前だとわかりますから。

一方、「シック」 という言葉は、アメリカでは 「エレガント」 ほど使われないはずです。そうすると、「シック夫人」 ならば、アメリカ人が書名を目にしたとき、「そんな名前の人がいるかもしれない」 という気に一瞬なるのではないでしょうか。

ジェニファー スコット
著者のジェニファー・L・スコット (上写真) は、シックよりもエレガントという言葉の方が、フランス人のライフスタイルを表す適切な言葉であることを知りながらも、マーケティングのために、あえて 「シック夫人」 の書名を付けたのではないかと私は考えます。そして、見事、ベストセラーに輝きました。

アメリカで出版された原書の書名も、日本版の書名も、いずれもあえて本質から少し外すことにより大成功をおさめることができたといえます。

このように、よい作品があれば、必ず売れる、成功する、とはかぎりません。人に伝えることができて、初めて評価を得ることができるのです

同様にビジネスの世界においても、どんなに良い仕事をしたところで、それが人に伝わなければ、自己満足で終わってしまいます。自分の仕事においても、「人に伝える」 ということをもっと意識していかねばならないな、と思いました。

伊坂幸太郎 「ゴールデンスランバー」 を読んで

伊坂幸太郎 ゴールデンスランバー

Pen : Pilot - Custom Heritage 912 (WA nib)
Ink : Herbin - Vert Reseda

「いいか、これがおまえたちの仕事だということは認める。仕事というものはそういうものだ。ただな、自分の仕事が他人の人生を台無しにするかもしれねえんだったら、覚悟はいるんだよ。バスの運転手も、ビルの設計仕も、料理人も、みんな最善の注意を払ってやってんだよ。なぜなら、他人の人生を背負っているからだ。覚悟を持てよ」

伊坂幸太郎 : ゴールデンスランバー
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社会人になってから40代後半まで、歴史小説は別として、私は小説というものをほとんど読んだことがありませんでした。

そんな私が伊坂幸太郎さんの本を読むようになったきっかけは、同じ課におられた女性社員との会話からでした。その人は読書が趣味だったので、「好きな作家は誰?」 と聞いたところ、「そうですねぇ、最近は伊坂幸太郎かな。面白いですよ」 という回答。もちろん、当時は伊坂幸太郎なんて名前も聞いたことがありませんでしたが、「これも何かの(作家との)ご縁かも」 と思って読み始め、今に至っています。

そんな伊坂さんの 「ゴールデンスランバー」 は、“ミステリー”というよりは、ハリウッド映画っぽいサスペンス調の仕上がり。映画化されたのも頷けます。読み始めたら止まらず、休日を使って一気に読破してしまいました。
ゴールデンスランバー

ケネディ大統領暗殺事件におけるオズワルド被告さながらに、総理大臣の暗殺犯として疑われた主人公が逃走を続けるストーリーです。

冒頭の言葉は、「犯罪者の親」 としてマスコミに囲まれた主人公の父親が、マスコミの圧力に抗議して叫ぶシーンで出てきたもの。伊坂さんの小説に臨場感が溢れるのは、こうしたディテールをしっかり描きこむところにありますね。これはいい言葉だなあ、と思いました。

前稿でも記しましたが、仕事というものは何らかの形で 「世間の役に立つ」 ということで成り立っています。ということは、仕事を通じて他人の人生に何らかの影響を及ぼしているということに他なりません。

例えば、どしゃぶりの雨の中でも、たったひとつの小箱を嫌な顔ひとつせず持ってきてくださるヤマト宅急便のドライバーさん。今、長時間労働で問題になっているくらいですから、本当に大変なお仕事だと思うのです。

ヤマト宅急便

それでも不機嫌な顔をされたヤマトの方って見たことがありません。いつも明るく元気よく。そんな姿を見ると、「すごいなあ」 と尊敬してしまうと同時に、つまらぬことでストレスを抱えている自分が恥ずかしく思えてしまいます。

自分が今もブチ切れることなく会社を辞めずに働いておれるのは、もしかすると深層心理に焼き付いているヤマトの皆さんのおかげかもしれません。

そうしてわが身を振り返ってみると、「自分の仕事が他人の人生を台無しにするかもしれない」 なんていう覚悟が全然できていないなあ、思うのです。

他人様の仕事ぶりを見て自分がパワーをもらっているのであれば、自分も同じように仕事を通じて他人様にパワーを返してあげないと。「50を越えたオッサンがこんなにがんばっているのなら、俺も負けられないぞ!」 なんて若手に感じてもらえるくらい熱くやってみて、ようやく少しだけ社会へ恩返しできるといったところでしょうか。

有名とか無名とか、そんなことは全く関係なく、プロフェッショナルであるか否かの差は、この 「覚悟」 にあるのかもしれません。

伊坂さんの小説を通じて、一歩だけ前に進めた、、、かな?


P.S.  今回使用したインクはエルバンのモクセイソウグリーンです。
モクセイソウ グリーン

この色、癒されるんですよね~

蛭子 能収さんの仕事観とは

ひとりぼっちを笑うな  蛭子能収
Pen : Pilot - Kaede (FA)
Ink : Pilot - Konpeki

所詮、お金をもらうための手段が仕事じゃないですか。(略)あまり胸を張って言うことではないけど・・・ 「お金のためなら、なんでもしますよ!」っていうくらいの気持ちはある。
でも仕事って本来、そういうものなんじゃないかな?いや、その程度のものと言っていいかもしれない。(略)
僕からすると 「仕事は自己表現する場」 なんて思考は、よく理解できないかもしれない。それよりもなによりも、自分の自由時間のほうがよっぽど大事。その自由のために働いていると言っても過言ではありません。

ひとりぼっちを笑うな : 蛭子 能収
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蛭子 能収さんといえば、「あの 『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』 の人ね」 という形で思い出す方が多いことでしょう。
ローカル路線バス乗り継ぎの旅

その蛭子さんの本職は漫画家なのですが、「蛭子さんのマンガを読んだことある?」 とまわりに聞くと、読んだことがある人は少数派。今や本職よりも副業の方が有名になってしまった方と言えるでしょう。

私が蛭子さんの名を知ったのは、蛭子さんがバラエティ番組やバス旅行でブレークするはるか前の80年代、そのマンガ作品を通じてでした。

下手な絵で (これ、たぶんわざと下手に書いているのだと思いますが)、ストーリーもつまらない。「こんなので雑誌に掲載されるの?」 と思うのですが、不条理な世界が妙に記憶に残ってしまうという、不思議な印象がありました。

その後、蛭子さんはテレビに出始めます。「あっ、あの下手くそマンガの蛭子さんだ!」 と思って見て、「この人にこのマンガありだなぁ」 と妙に納得したことを覚えています。

バス旅行の番組で蛭子さんを見て笑えた方は、ぜひマンガも見てほしいですね。

そんな蛭子さんが出されたマンガでない本、「ひとりぼっちを笑うな」を買って、家で読んでいたら、妻が激高しました。「あなた、蛭子さんの本を読むなんてどういうつもり?」 と完全拒否反応。蛭子さんのサエない風貌に (蛭子さんゴメンナサイ)、我慢ならないそうです。「了見の狭いお方ですね」 と返しておきました。

ともあれ、「ひとりぼっちを笑うな」 を読みまして、私は何か蛭子さんと相通じるものを感じました。

蛭子さんはパーティや宴会が大の苦手とのこと。私もそうです。気の合う友人と飲みに行くのは好きですけどね。

畳の席の宴会なんかですと、盛り上がってきたところで席を移り、上司の前に行って 「どうぞ」 なんて言ってお酒を注ぐ宴会上手な方がいます。というより、だいたい皆さん、そうするものでしょう。
oshaku

けれども私、あれができないんです。出世のことを考えると、あの技ができないのはマイナス以外のなにものでもありません。しかし、四半世紀を越えるビジネスマン人生で、宴会時の席移動をせずに通してきましたから、このままのスタイルでビジネスマン人生を終えるつもりです。

そもそも、自分の目の前の席の方に、「ちょっとすみません」 なんて言って席を変えてしまうのは失礼な気がしてしまうのです。私自身、目の前の方にそれされるとあまり良い気はしませんから。

蛭子さんは宴会を抜け出して一人になるとホッとするそうで、その気持ち、よくわかるなあ~

蛭子さんはまた、友人も少ないそうで、孤独である環境が快適だと述べています。私自身も友人の数は多くありません。葬式のときにお悔やみに来てくれる人は少ないだろうなあ、と思います。

少し寂しい気もしますが、人付き合いに多くの時間を割くよりも、自分ひとりの時間を大切にしたいのです。妻は反対に、常に人と接点がないと耐えられないタイプでして、なにかといつも人づきあいで悩んでいます。「それだったらいっそのこと、人付き合いなんて止めてシンプルに生きればいいじゃない」 と私は言うのですが妻には私のような生き方は理解できないようです。

その蛭子さんの仕事観を記したのが上の一文です。

さすがの蛭子さんも 「あまり胸を張って言うことではないけど」 と前置きしていますが、「お金のためなら、なんでもしますよ!っていうくらいの気持ちはある。でも仕事って本来、そういうものなんじゃないかな?いや、その程度のものと言っていいかもしれない。」 という言葉を見て、最初は 「えっ?」 と思いました。

なぜなら 「仕事というものには、お金を越える何かがあるのではないか」 と私は考えてきましたから。このブログの根底には、そうした想いを綴っているつもりです。

しかし、蛭子さんにズバリ言われてみて、「そういう考え方もアリなのかな」 と思ったんです。

イリーガルな世界は別として、通常、人様からお金をいただくということは、自らの行為が世間の役に立っているということの証に他なりません。蛭子さんであれば、彼の 「ヘヘヘッ」 って頭に手を当てる姿をみて、思わず吹き出してしまう視聴者のお役に立っているからギャラを取れるわけですよね。
蛭子さんの笑い

すなわち、蛭子さんのようにお金を目的として仕事をするとしても、結果としてそれは社会貢献になるのだからそれで良いのではないか、ということです。なにも肩肘張って 「オレが仕事をするのは、金のためだけじゃない」 なんて思いこむ必要はないのかもしれない。蛭子さんに 「もっとリラックスして生きてみたら」 と肩を押されたように思います。

今まで現代人が根底に思いを抱きつつも、コトバとして表現するのを無意識にためらってきた内容をズバリ表現してくれた蛭子さんって、実はすごいアーティストなのかもしれません。

50歳のオッサン、歯列矯正を終える

歯列矯正 ブラケット

妻は八重歯がもともとありまして、私は気にならなかったのですが、本人は気にしておりました。

子育てが一段落したこともあり、妻は矯正を四年ほど前に開始。歯がだんだん揃ってゆくのが嬉しいらしく、その様子をみて、私もやってみようと決意したのが三年ちょっと前。

私の場合ニッコリ笑顔するのも恥ずかしいほど、それはもう、上下ともにひどい歯並びでありました。困ったことに状況は年々悪化する一方で、歯ブラシがなかなか届かない歯もいくつか出てくるほど。

「この調子では20~30年後、虫歯や歯槽膿漏も多くなって美味しいものが食べられないかも」 という思いが熾烈矯正を決意した第一の理由です。

それとやはり、歯並びのひどいオジサンたち (自分もその一員でありましたが) を見ていて、「頭髪が薄くなったり、肌のシワやシミが増えるのは仕方ないとして、せめて歯並びくらいは整えないと見苦しいかもなあ」 と感じるようになったのが第二の理由。

この点は前稿の 「自分で自分をデザインする」 という内容にもつながる話ですね。

第二の理由は断じて 「歯並びを良くして女の子にモテたい」 というヨコシマな気持ちとは関係がありません (妻も時々このブログを見ておりますので、そう言わざるをえない状況ともいえます)。

ともあれ、実際に矯正をスタートしますと、噂に聞いていたとおり辛かったです。女性の場合、美しくなってゆく歯並びを見て元気が出て、そんな辛さも乗り越えられるのでしょうけれど、50歳を越えたオッサンはそんなものを見ても元気は出ません! 「こんなシンドイのカンベンしてほしいわ」 と逃げたくなりましたが、私の場合は上下でそれぞれ二本づつ (計4本) 歯を抜いてスタートした以上もう後には引けず、覚悟を決めてこの三年間耐え忍びました。

そしてめでたく、ついにブラケットと呼ばれる矯正器具 (トップの写真がその例) を取り外す日がやってきました。

妻は器具を取り外した日、「スッキリしてもう最高!」 とニコニコで、私もそうなると期待していました。しかし、結局、取り外した後も、器具を付け続けるんですよね。

下歯
下の歯はこんなワイヤー器具が歯の裏側に固定されます (本稿に掲載されている写真は、いずれも私のものではありません)。

上歯 リテーナー2
上の歯はこんな状態。

上歯 リテーナー
これはリテーナーと呼ばれ、この器具が上歯に装着されています。

リテーナーは取り外し可能で、当初1~2年の間は食事の時間以外は装着し続けなければいけません。歯が安定してきたら、日中は取り外せますが、就寝時には装着が必要です。

そうなんです、一生、器具から離れられないのです。そうしないと歯は毎日動きますから、きれいに揃う歯並びは維持できないのです。

口の中の違和感は以前付けていた矯正器具の時よりも減りましたが、依然として違和感ゼロというわけではありません。

そんなわけで、妻のように 「スッキリして最高!」 なんてとても思えませんでした。むしろ 「これ、一生続けるの?」 っていうかんじ。

まとめますと、高いお金と三年間という時間をかけて歯列矯正をやってみて、それに見合うベネフィットがあったかというと、私の場合、総合的にみて若干のプラスという思いです。女性はともかく、私のようなオッサン世代の方の場合、無理してやるほどのこともないと思います。

そんな私が矯正をやってみて良かったと思うのは次の点です。

1) 歯ブラシが全ての歯にきちんと届くこと
2) コカ・コーラのコマーシャルに出てくるアメリカ人の若者のように、大げさな笑顔をしたい気持ちになれること (笑う門には福来たり)
3) 歯を合計四本抜いたせいか、肩こりが激減したこと
4) 生活における様々な事柄について、キチンとしたい気持ちが強くなったこと

中でも、自分にとって一番大きなポイントは4)です。

「履き物をそろえると心もそろう」 という言葉がありますよね。歯並びを揃えたことで、履き物をはじめ机の上や引き出しの中など、無意識のうちに 「きれいに揃えたいな」 という気持ちが自分の中で強くなったように感じます。

「行動は習慣を作り、習慣は人格を作り、人格は運命を作る」 と言いますから、矯正をきっかけに 「揃える」 という習慣を徹底し、やがては 「凜とした人生」 につなげてゆきたいもの。

そのようにして将来、「矯正でお金と時間を費やしたけれど、今思えばあれは安くついたなあ」 と思えるようにせねばならぬ、と思っています。
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